「団子」は、
穀類の粉を水でこねて小さく丸めて蒸し、または茹でたもの、
の意(広辞苑)である。今日「だんご」の呼称が定着しているが、地方によっては、
だんす(陸奥、東北地方など)、
あんぶ(新潟県など)、
おまる(滋賀県・四国地方など)、
おまり(御鞠 伊勢)、
おまる(月見団子 群馬地方)、
等々様々な呼称がある。女房詞(ことば)で団子のことを、
いしいし、
といったが、これは「美(い)し」を重ねた語で、おいしいものの意であり、各地の方言にもある(日本大百科全書)。「団子」は、
古くは焼団子や団子汁の形で主食の代用品として食せられ、材料も粒食が出来ない砕米や屑米や粃、雑穀の場合は大麦・小麦・粟・キビ・ヒエ・ソバ・トウモロコシ・小豆・サツマイモ・栃の実などを挽割あるいは製粉したものを用いて団子を作った。今日でも地方によっては小麦粉や黍(きび)粉などで作った米以外の団子を見ることが可能である、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E5%AD%90)。今日の感覚では、嗜好的な役割が強いが、
かつては常食として、主食副食の代わりをつとめた。団子そのものを食べるほか、団子汁にもする。また餅と同様に、彼岸、葬式、祭りなど、いろいろな物日(モノビ 祝い事や祭りなどが行われる日)や折り目につくられた、
とある(日本昔話事典)。たとえば、
正月の二十日(はつか)団子、春秋の彼岸団子、春の花見団子、秋の月見団子、死者の枕頭(ちんとう)や墓前に供えた枕(まくら)団子などがある。このうち彼岸や仏生会(ぶっしょうえ)などにはよもぎ団子がつくられた。名刹の門前土産に草団子を多くみかけるのは、そうした慣習の名残である、
ともある(日本大百科全書)。そのせいか、
団子浄土(良い爺さんが団子を追って地中の異郷に至り幸福を得る)、
団子婿(婿にもらう団子)、
等々昔話では団子は不可欠で、餅の例は少ない。桃太郎の話でも、黍団子であった(日本昔話事典)。ただ、
団子と餅、
の違いについては、
餅はめでたいときに、団子は仏事などにとする所もあるが、この傾向は全国的ではない、
とあり(日本大百科全書)、
米の粒のまま蒸して搗いたものをモチ(餅)、
粉をこねて丸めたものをダンゴ(団子)、
といった(たべもの語源辞典)、とする説もあるが、
「団子は粉から作るが、餅は粒を蒸してから作る」「団子はうるち米の粉を使うが、餅は餅米を使う」「餅は祝儀に用い、団子は仏事に用いる」など様々な謂れがあるが、粉から用いる餅料理(柏餅・桜餅)の存在や、餅米を使う団子、うるち米で餅を作れる調理機器の出現、更にはハレの日の儀式に団子を用いる地方、団子と餅を同一呼称で用いたり団子を餅の一種扱いにしたりする地方もあり、両者を明確に区別する定義を定めるのは困難である、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E5%AD%90)。もともと、「餅」自体が、
「餅」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474462660.html)、
「もち」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/456276723.html?1583742170)、
で触れたように、「餅」(漢音ヘイ、呉音ヒョウ)は、中国では,
小麦粉などをこねて焼いてつくった丸くて平たい食品,
つまり、「月餅」の「餅」である。「もち米などをむして,ついてつくった食品」に「餅」を当てるのは,我が国だけである。
餻、
餈、
も「モチ」のことである(たべもの語源辞典)。「餻」(コウ)は、「糕」とも書き、
餌(ジ)、
と同じであり、
もち、だんご(粉餅)、
の意である。「餈」(シ)は、
むちもち、もち米をむして搗きたるもち(稲餅)、
とある(字源)。江戸中期の「塩尻」(天野信景)には、
「餅は小麦の粉にして作るものなり、餈の字は糯(もちごめ)を炊き爛してこれを擣(つ)くものなれば今の餅也、餻の字も餅と訓す、此は粳(うるしね)にて作る物なり」
とあり、江戸後期の「嬉遊笑覧」(喜多村信節)にも、
「餅は小麦だんごなり、それより転じてつくねたる物を糯といへり。だんごは餻字、もちは餈字なり。漢土にて十五夜に月餅とて小麦にて製することあり、よりて『和訓栞』に餅をもちひと訓は望飯(もちいひ)なりといへるは非なり、『和名鈔』に「糯をもちのよねと云るは米の黏(ねば)る者をいへり、是もちの義なり。故にここには餻にまれ餈にまれもちと云ひ餅字を通はし用ゆ」
とある(たべもの語源辞典)。つまり、「餅」が本来、小麦粉で作ったものであることをわかっていて、日本の糯米でつくるモチの借字として「餅」の字を使った、という経緯があり、結構あいまいではあった。
ところで、「団子」の「団」は、
ダン、
は、音読み、「子」の、
ゴ、
は、訓読み、の重箱読みである。和語の雰囲気であるが、大言海は、
団喜(ダンキ)の轉、
を採り、
團粉(ダンゴ)は、形の團(マロ)き故に號(ナヅ)けしと云ふ説は非なり、
とする。他に、
字典に、團は、聚也、集也と云ひ、米麦の粉の、ねり團(あつめ)し故、だんごと云ふ(愚雑俎)、
形が丸いところから(瓦礫雑考・木綿以前の事=柳田國夫)、
があるが、
団喜(だんぎ)に由来し、粉を使うことから「団粉」となり、小さいものであることから「団子」に変化した、
とするのが通説(語源由来辞典)とする。しかし、この変化は、いささか疑わしくないか。
「団喜」は、「菓子」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474306504.html)で触れたように、遣唐使が中国から持ち帰った八種の唐菓子、
八種唐菓子(やくさからがし)、
と呼ばれる、
梅枝(バイシ 米の粉を水で練り、ゆでて梅の枝のように成形し、油で揚げたもの)、
桃枝(とうし 梅枝と同様に作り、桃の枝のように成形し、桃の実に似せたものをそくい糊でつけた)、
餲餬(かっこ 小麦粉をこねて蝎虫(蚕)の形とし、焼くか蒸したもの)、
桂心(けいしん 餅で樹木の形をつくり、その枝の先に花になぞらえて肉桂の粉をつけたもの)、
黏臍(てんせい 小麦粉をこねてくぼみをつけて臍に似せ、油で調理したもの)、
饆饠(ひら 米、アワ、キビなどの粉を薄く成形して焼いた、煎餅のようなもの)、
鎚子(ついし 米の粉を弾丸状に里芋の形にして煮たもの)、
団喜(だんき 緑豆、米の粉、蒸し餅、ケシ、乾燥レンゲなどを練った団子、甘葛を塗って食べた)、
のひとつ(倭名類聚抄、日本食生活史)で、はじめは、植物の菓子に似せて、
糯米(もちまい)の粉・小麦粉・大豆・小豆などでつくり、酢・塩・胡麻または甘葛汁(あまづら)を加えて唐の粉製の品に倣って作り、油で揚げたもの、
である(日本食生活史)。団喜は、
歓喜団(かんぎだん・かんきだん)、
ともいい、
現存する清浄歓喜団は、小麦粉の生地で小豆餡を茶巾状に包み胡麻油で揚げたものとなっている、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%8F%93%E5%AD%90)。確かに、文政13年(1830)刊の『嬉遊笑覧』に、
団喜は俗にだんごといふものの形にて餡を包めるなり、
とある。
しかし、
中国の北宋末の汴京(ベンケイ)の風俗歌考を写した「東京夢華録」の、夜店や市街で売っている食べ物の記録に「団子」が見え、これが日本に伝えられた可能性がある、
とある(日本語源大辞典)。「団子」を、
ダンス、
と訓むのは、「子」の唐音でもあるし、
ダンシ→ダンス、
という転訛かもしれない。「団喜」起源ときめつけるのは、少し早計かもしれない。。室町末期の筆写本「伊京集」には、
ダンゴ、
ダンス、
の両形がみられる。室町末期の「日葡辞書」には、
ダンゴ、
しか載らないが、近世になってダンゴが優勢になっても、ダンシが残っている、とある(仝上)。
柳田國男は、
団子は、神饌の1つでもある粢(しとぎ)を丸くしたものが原型とされる。熱を用いた調理法でなく、穀物を水に浸して柔らかくして搗(つ)き、一定の形に整えて神前に供した古代の粢が団子の由来とされる、
という説を立てる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E5%AD%90)。粢(しとぎ)とは、
日本古代の米食法の一種、水に浸した米を原料にさまざまな形に固めたものを呼び、現在は丸めたものが代表的である。別名で「しとぎもち」と言い、中に豆などの具を詰めた「豆粢」や、米以外にヒエや栗を食材にした「ヒエ粢」「粟粢」など複数ある。地方によっては日常的に食べる食事であり、団子だけでなく餅にも先行する食べ物と考えられている、
とされる(仝上)。平安時代末から鎌倉時代末にかけての、日本最古の料理書『厨事類記』には、
歓喜団(団喜)は「粢(しとぎ)のようにしとねて、おし平めて(中略)良き油をこくせんじて入べし、秘説云、油に入れば、火のつきてもゆるがきゆる也(後略)」と説明し、粢のようにまずは調理し、後半は油に入れ揚げ仕上げる料理となっている、
とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E5%AD%90)、粢に似せて作る『厨事類記』の歓喜団(団喜)は今日の団子に近いとも言われる(仝上)が、この説明は、「団喜」と「粢」とが、別系統ということを表しているように見える。
仮に、「団子」の原型が、
粢(しとぎ)、
としても、それに「団子」と名づけたのは、どこから来たかが、問題になる。
米の粒のまま蒸して搗いたものをモチ(餅)とよび、粉をこねて丸めたものをダンゴ(団子)といった。団粉(だんご)とも書くが、この字のほうが意味をなしている。団はあつめるという意で、粉をあつめてつくるから団粉といった。団喜の転という説もあるが、団子となったのは、団粉とあるべきものが、子と愛称をもちいるようになったものであろう、
とする説(たべもの語源辞典)が、もっとも説得力がある。中国から「団子」(ダンシ)という名前が入ってきたのかもしれないが、少なくとも「粢」という「しとぎもち」が元々あったことを考えると、
団喜(だんき)→団子(だんご)、
という転訛は考えにくい。「団子」の唐音、
ダンス→(団子)→ダンゴ、
と、重箱読みに転訛したというほうが納得がいく気がする。
さて、「団子」は、中世になると、大永四年(1524)の『宗長手記』には、駿河名物の山名物十だんごの記述があり、
必ず十ずつ杓子にすくわせる、
とあり、串刺しではないが、室町時代には、
竹の串にさした団子、
が登場し、金蓮寺の『浄阿上人絵巻』には、二個ずつさしてある、とある(たべもの語源辞典)。
中世まではもっぱら貴族や僧侶の点心として食されたが、近世になると、都会を中心に庶民の軽食としてもてはやされ、団子を売る店や、行商人も多く、各地で名物団子が生まれた、
とされ(日本語源大辞典)、寛永年間(1624~1644)の『毛吹草(けふきぐさ)』には、
京都の七条編笠(あみがさ)団子、御手洗(みたらし)団子、稲荷(いなり)染団子、
摂津(大阪府)の住吉御祓(おはらい)団子、
近江(滋賀県)の柳団子、
があり、享保三年(1727)の『槐記』に、
青串に黄白赤と三つさしてある、
とあり、明和(1764~72)には、
お龜団子、
みたらし団子、
安永六年(1777)には、蜀山人の『半日閑話』に、
浅草門跡前の家号むさしや桃太郎から、日本一の黍団子が発売された、
と載り、天明七年(1787)刊の『江戸町中喰物(くいもの)重宝記』には、
さらしな団子、
おかめ団子、
よしの団子、
と、天明年間(1781~89)には、
米つき団子、
笹団子、
さらしな団子、
吉野団子、
難波団子、
しの原団子、
さねもり団子、
景勝団子、
大和団子、
が見え、天明三年(1783)に、
柴又の草団子、
文政年間(1818~30)には、
喜八団子、
があり、
根岸の里芋坂で売られたむ団子は後に羽二重団子とよばれ、今につながる名物になった、
とある(たべもの語源辞典・日本大百科全書)。
ただ気になるのは、以上の庶民の間で広まっていく団子の系譜とは別に、
農村では、古来団子は雑穀やくず米の食べ方の一つ、
であった。米飯の代わりに、昭和の初めまで食べられてきた団子がある。この流れに、
五平餅、
があり、これも、「餅」といっているが、五平餅(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474063861.html)で触れたように、
粳米(うるちまい)飯を半搗き、
にしたものであるので、団子の系譜である。五平餅の形には、
御幣、
わらじ、
小判、
丸、
団子、
棒、
等々いろいろあるのである。あるいは、貴族、僧侶から広まっていった、
団子、
と、
農村で代用食として食べられた、
団子、
とは、まったく系譜を異にしているのかもしれない。前者は、あるいは、
中国由来(の団子・団喜)、
後者は、
日本在来(の粢、しとぎもち)、
からそれぞれ広がっていって、「団子」という名に統一されていったのかもしれない。
参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:団子
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