「桜餅」は、
小麦粉・白玉粉を練って薄く焼いた皮(紅白二種ある)に、餡を入れて、塩漬けの桜の葉で包んだ菓子。もとは、小麦粉の皮に餡を入れ、塩漬けの桜の葉で包んで、蒸籠で蒸したもの。桜時に江戸長命寺で売り出したのに始まる、
とあり(広辞苑)、
紅皮には白餡を包み、白皮には並餡を包む、
とある(たべもの語源辞典)。
関西風は、蒸した道明寺粉を用いて作る、
とある(広辞苑)。道明寺粉(どうみょうじこ)は、水に浸し蒸したもち米を干して粗めにひいたものである。
(関東風桜餅(長命寺桜餅) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E9%A4%85より)
「桜餅」と呼ばれる餅菓子には、
関東風、
と
関西風、
がある、らしい。関東風は、関東以外では、
長命寺餅、
とも呼ばれることもあるが、関東で長命寺餅と呼ぶことは少なく、
長命寺の桜餅、
と称した場合、向島の、
長命寺桜もち(https://sakura-mochi.com/info/kodawari.php)、
を意味する(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E9%A4%85)。関西風は、
道明寺餅、
または略して、
道明寺(どうみょうじ)、
ともいう。関東及び一部の地域以外では、関東風の桜餅を見ることはほとんどなく、単に「桜餅」といえばこの道明寺餅のことを指す。
古文書に表れる「桜餅」は、南方熊楠によれば、
天和三年(1683年)である。大田南畝の著「一話一言」に登場する京菓子司、桔梗屋の河内大掾が菓子目録に載せたという。天和三年には桔梗屋菓子目録が出版され、また京菓子司・桔梗屋の河内大掾が江戸に店舗を構えた。これは蒸菓子であり、後の世の桜餅とは別物のようである。昔の作り方では、餅を桜の葉で包み、蒸籠で蒸すやり方がある、
とあり、さらに、
男重宝記(元禄六年、1693年)に「桜」とあるところに桜の五弁の花びらを模した桜餅の図が載っていて、その傍らに「中へあん入れる」と記されている、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E9%A4%85)。これより後だと思われるが、元禄四年(1691)に、下総から長命寺の門番になった山本新六という者が、享保年間(1716~36)八代将軍吉宗が墨田川の堤に桜を植えて遊覧地になると、この桜の葉を利用して桜餅をこしらえて売り始めた(たべもの語源辞典)。
長命寺門内、山本屋新六、初めて売り出せり、
と、大言海にある。江戸名物詩には、長命寺桜餅として、
幟は高し長命寺邊の家、下戸爭買(ヒフ)三月頃、此節業平吾妻橋遊(せば)、不吟都鳥吟桜餅、
と載る(大言海)。文政十三年(1830)の嬉遊笑覧には、
近年隅田川長命寺の内にて櫻の葉を貯へ置て櫻餅とて柏餅のやうに葛粉にて作るはしめハ粳米にて製りしがやがてかくかへたり
と、柏餅のように粳米で製していたものを、葛粉に替えたらしい。大言海には、その製法が、
葛粉に砂糖を加へ、水にて溶き、銅鍋に胡麻油を敷きたる上にて、薄く焼き成したるにて、赤小豆餡(あづきあん)を包み、その表裏を、又、鹽漬の櫻の葉に熱湯を注ぎたるもの二枚にて包み、蒸籠にて蒸して、成る、葉に、香気あり、
とある。文政八年(1825)の、曲亭馬琴他編『兎園小説』の中で、屋代弘賢が、
去年甲申一年の仕込高、桜葉漬込卅壱樽、但し一樽に凡そ二万五千枚程入、葉数〆七拾七万五千枚なり、但し餅一に葉弐枚宛なり、此餅数〆卅八万七千五百、一つの価四文宛、此代〆壱千五百五拾貫文なり、金に直して二百廿ヒ両壱分弐朱と四百五拾文、但六貫八百文の相場、此内五拾両砂糖代を引き、年中平均して一日の売高四貫三百五文三分宛なり
と書いている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E9%A4%85)。桜餅一つの売値四文は、推定で米の価格から換算した場合は約63円らしい(仝上)。
ちなみに、墨田川東岸、向島長命寺は、天台宗で遍照院といい、常泉寺と称したが、寛永(1624~44)の末、三代将軍家光が鷹狩りにきて、急に腹痛を起こし、この寺に休息し、寺の井戸水を一杯汲んで家光が飲んだところ、腹痛が治ったというので、この井戸に、「長明水」と名づけたところから、長命寺と称するようになった、という(たべもの語源辞典)。
浪華百事談(明治二十八年頃成立)によると、桜餅は、
天保の頃までは、浪花に於いて製せる家なく、北堀江高台橋の東の方浜の家に、土佐屋何某と云へる菓子司ありて、その家に製したるが始めなり、衆人めづらしとて求むること多し、もっともその製佳品にて、冬季はかたくりの粉の水にてときし物をうすくやき、中に白小豆の餡を入れて包み、その上を桜の葉にて挟み、夏秋には吉野葛にて、
とある(たべもの語源辞典)、とか。ただ、
もち米でできた昔からの桜餅が、古くから伝わる和菓子の流れに合って各地に広まっている、
とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E9%A4%85)、同じように道明寺粉で作った餅を椿葉で挟む椿餅があるので、桜の葉で包むこと自体が新しいのであって、道明寺粉で作ること自体は特別の創意ではないらしい。
これが道明寺桜餅なのかどうかははっきりしないが、関西の道明寺「桜餅」が、後発ながら、「桜餅」の代名詞になった。
因みに、「道明寺」は、尼寺である。「ほしい」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474940298.html)で触れたが、道明寺も、
糒(ほしい 干飯)の一種、
で、保存食として使われ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%98%8E%E5%AF%BA%E7%B2%89)、
糯米を水に浸し、吸水した後水を切り、古くは、釜の上にせいろを置いて、下から火をたいて蒸した。その蒸し上がった物を天日にさらして乾燥させて、干飯(ほしいい・ほしい)として保存した(仝上)。作り出したのは、
道明寺の尼僧、
で、
道明寺糒、
として有名になって、
道明寺、
といえば、糒のこととなった(たべもの語源辞典)。この道明寺糒を碾いて粉にしたものが道明寺粉である。
(関西風桜餅(道明寺桜餅) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E9%A4%85より)
参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95