2020年07月06日
行蔵は我ニ存す
松浦玲『勝海舟』を読む。
文政六年(1823)に生まれ、明治三一年(1899)に死んだ七十七年の生涯を、十八章にわけて記述された、900ページを超える大著である。ふと思いついて、再読を始めた。この著者には、『勝海舟』『海舟と幕末明治』『明治の勝海舟』等々、海舟を論じた著作はあるが、『横井小楠』も忘れ難い。
四十代、幕末維新を駆け抜けた海舟は、死の直前の七十代、日清戦争に反対し、
隣国交兵日
其軍更無名
可憐鶏林肉
割以与魯英
と漢詩を書いて無名の師、と決めつけ、
新しい(清への)侵略の引き金になる、
と予言する見識を示し、また死の数年間、
藩閥政府の迷走を観つつ、
今哉所謂藩閥の末路なり、邦家の末路にあらざるなり、
当今は幕末と無二之形勢、
と述べ、幕末と大同小異の、
閥末、
と観た。海舟は、
「明治維新で敗れた側、政権を薩長に引き渡した側だという自覚は常に手放さない」
海舟にとって、
(西郷や大久保や木戸が没したけれども)「薩長に渡した枠組みは変わっていない。そうであるからには薩長で全責任を負ってもらわなければ困る」
という姿勢なのである。著者は、こう書く。
「明治十年代を完全に在野で過ごしたことも、この意識を強めた。その面が最晩年には特に強く出る。枢密顧問官として重要事項の諮詢にも与るけれども、これは所詮他人事だという醒めた気分を隠そうとしない。それで『閥末』と『我が末の世』の対比が可能となる。
ただし徳川の世において、海舟は常に第一線の当局者であったわけではない。初めは微禄無役の御家人、蘭学修行が認められて次第に地位が昇って来ても傍系官僚の軍艦奉行にとどまり、政権の中枢部には入れなかった。軍艦奉行を罷免されて閑居した時期も長い。本当に切回したのは、鳥羽伏見の敗戦で徳川慶喜が東帰してからである。つまり幕府が倒れると決まってから、その後始末について手腕を発揮したのだった。そういうことを全部含めての『我が末の世』である。幕府はもう保たないと、他の幕臣よりも早めに見極めをつけており、それなりに手を打ってあった。だから幕府の後始末を担当することができた。
幕末をそのように体験してきたので、その三十年後に出現した『閥末』が、海舟には能く見える。だがこれは『我が末の世』ではない。薩長の末の世である。」
還暦を迎え静岡から東京へ移転した慶喜が参内後、海舟邸を訪れ、
「先生ノ御目ノ付ケ処ハ衆人ノ及バヌ処」
と言うのである。
著者は書く。
「海舟は、幕末が終わるときに大きく輝き、閥末において小さく光った」
と。僕自身は、海舟が最も海舟らしい姿勢を示したのは、嗣子小鹿が死んだ前後の処置だと思っている。その少し前、明治二五年の正月末,福沢諭吉は,ひそかに脱稿した『痩我慢の説』を,榎本武揚と勝海舟に送り付けてきた。二人とも反応しなかったので、二月五日付で、諭吉は、
「過日呈した瘦我慢の説一冊、いずれ時節を見計い世に公にするつもりだが、事実に間違いや立論の不当のところは『無御伏蔵』御意見を承って置きたい」
と、返事を催促し、尚書として,
草稿は極秘とし、二三の親友以外には見せていない,
と断っていた。榎本は、
昨今別而多忙に付、其中愚見可申述候、
と躱したが、海舟は、
行蔵は我ニ存す,毀誉は他人之主張,我に与らず我に関せずと存候、
と有名な返事を書き、尚書についても,
各人へ御示御座候とも毛頭異存無之候
と突き放した。
福沢の瘦我慢の説は、要は,戊辰戦争のとき,徳川は徹底的に抗戦し,最後は江戸城を枕に討死すべきだった,その精神を受け継ぐことが,小国日本が世界の大国に抗していく原動力になる,と海舟の江戸城無血開城を,痩我慢の精神を踏みにじったものと非難しているのである。
しかし、海舟の返事の翌七日、長く病床にあった嗣子小鹿が死んでおり、それに際して、海舟は覚悟したことがあった。
その翌日二月八日付で、海舟は、徳川慶喜,家達両名に宛てた「志願書」なるものを認めた。「小臣家」と自称するところから始まり、勝家は先年華族に列せられたとき、御断りする決心のところ少々所存があり御受けした。このたび、
相続可致倅病没、其内拙老弱最早無程死亡可致、
という次第なので、この家族の家を、
一堂(慶喜)以御末男御相続被下候様願候、
というのである。著者はこう書く。
「海舟は、これまで私一家のことで御迷惑をかけた覚えはないのでこれだけは聞き届けていただきたい。もしこの提案が御許容なきときは特恩の家禄を返上する覚悟だと、やや脅迫気味とも感じられる強い態度だった。また受け入れられた場合、自分が生きている間は勝家、没後は『徳川家』としていただく。生き残る勝の一族が新徳川伯爵家の厄介にならずに済むだけの経済的手当はしてあると、行届いた書面である。」
慶喜は、
末男は未だ幼いので(十男精は五歳)どのように育つか心配だけれども御依頼承諾する、
とした。著者は、こう付言する。
「福沢諭吉への返書では、勝家を徳川家に渡すという類のことは何も書かれていないけれども、これは後世に対する回答である。」
と。
本書は、こう締めくくられている。
「海舟には政治的な後継者がいない。人格的な後継者を自認するのが徳富蘇峰である。海舟はそのことにどの程度の責任を有するのか。」
なお、横井小楠については、
「沼山」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163449.html)
「横井小楠・その学びの姿勢と生き方Ⅰ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163207.html)
「横井小楠・その学びの姿勢と生き方Ⅱ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163208.html)
で触れた。
参考文献;
松浦玲『勝海舟』(筑摩書房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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