2020年08月06日

角兵衛獅子


「角兵衛獅子(かくべえじし)」は、

越後国西蒲原郡の神社の里神楽の獅子舞、

あるいは、

越後国西蒲原郡月潟地方から出る獅子舞、子供が小さい獅子頭をかぶり、身をそらせ、逆立ちで歩くなどの芸をしながら、銭を乞い、歩く、

ものなので、

越後獅子(えちごじし)、
蒲原獅子(かんばらじし)、
月潟(つきがた)の獅子

とも言う(広辞苑)。また、「角兵衛獅子」を、

覚兵衛獅子、

と当てたりするものもある。たとえば、洒落本・当世爰かしこ(1776)には、

「ひろうどの牛まで出るに、覚兵衛獅子(カクベイシシ)は何がふ足で久しくみへぬ」

とある(精選版日本国語大辞典)。

角兵衛獅子(かくべえじし)は、越後獅子(えちごじし)とも呼ばれる由来については、

越後より江戸に出しは、宝暦の頃(1751~64)なりと云ふ、始めて率ひ来たりし人名などによるか、

とある(大言海)が、そもそも角兵衛獅子の由来については、諸説あり、昭和11年(1936)に発足した角兵衛獅子保存会のまとめによれば、ひとつは、

水害対策説です。信濃川の支流中ノ口川左岸にある月潟村は、肥沃な土地に恵まれ農業が盛んでしたが、水運と農業に欠かせない水をもたらす川はしばしば氾濫し、村の人々を苦しめました。そこで、一人の農民が、水害で疲弊する村に新たな収入源をもたらそうと、踊りを考案して子どもたちに教え、近隣の村々を巡業。農民の名前が角兵衛だったことから、その踊りの一座は角兵衛獅子と呼ばれた、

というものhttps://n-story.jp/topic/117/page1.php。「角兵衛獅子」は、このときの一座を率いていた「角兵衛」からきている、ということになる。越後獅子が江戸に来たのは宝暦5年(1755年)らしく、

諸諸侯へ召し出されて獅子冠を演じた親方が角兵衛であったから角兵衛の獅子、角兵衛獅子となった、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E5%85%B5%E8%A1%9B%E7%8D%85%E5%AD%90あるが、別に、

信濃川中流部の中之口川沿岸の農民角兵衛が毎年の凶作や飢饉から村人を救うため、獅子舞を創案した、

洪水に悩まされた月潟村の者が堤を造る費用を得るために、子供に越後の獅子踊りをさせて旅稼ぎをさせたのが始まり、

というのもある(仝上)。

もうひとつの説は、

親の仇討ち説です。常陸(現・茨城県)から月潟村に移り住んだ角兵衛が何者かに殺され、その時に犯人の足を噛み切りました。足の指のない犯人を探し出すため、角兵衛の2人の息子は、逆立ちしながら「足を上にして、足の指のないものを気を付けて見れ」とはやしたて、全国を回った、

というもの(仝上)。これによると、「角兵衛」は、殺された父の名、ということになる。

さらには、

角兵衛は獅子頭を彫った名工の名(俚言集覧・嬉遊笑覧・三養雑記)、

と、獅子頭の作者名というのもある(日本語源大辞典)。この他に、江戸後期の『嬉遊笑覧』は、

「越後獅子を江戸にては角兵衛獅子といふ。越後にては蒲原郡より出づるに依りカンバラ獅子といふとぞ、角兵衛獅子は、恐らくは蒲原獅子の誤りならむ」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E5%85%B5%E8%A1%9B%E7%8D%85%E5%AD%90、これによれば、カンバラ獅子が角兵衛獅子に転訛したことになる。

いずれにせよ、宝暦六年(1756)撰の「越後名寄(なよせ)」や文化一二年(1815)撰の「越後野誌」に、すでに「いつ始まったのか定かではない」と記されているほど、古い(仝上)、とある。

獅子頭(ししがしら)をかぶり、鶏の尾をつけた衣服を着た子供が二、三人、笛、太鼓の音につれて踊り回り、逆立ちなどの技を見せるもの。多く正月などに舞い歩き、災いを除くといわれる、

とある(精選版日本国語大辞典)が、

獅子舞は7歳以上、14、5歳以下の児童が、しま模様のもんぺと錏(しころ:兜の鉢の左右から後方に垂れて頸を覆うもの)の付いた小さい獅子頭を頭上に頂いた格好で演じる。獅子頭の毛には鶏の羽根が用いられ、錏には紅染の絹の中央に黒繻子があしらわれている、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E5%85%B5%E8%A1%9B%E7%8D%85%E5%AD%90。構成は、

かつては獅子舞4人、笛吹き1人、太鼓1人の計6名(これより少ないと定めの曲ができない)であったが、後に獅子舞2人、笛吹き兼太鼓の3人が増え9名となった。このうち笛吹きまたは太鼓打ちを「親方」と呼ぶ。親方は曲名を言い、掛け声調子を取り、獅子舞はその指示に従って芸を演じる、

という(仝上)。

親方だけが月潟または近隣に籍を置き、獅子の児は他所の孤児などもらい子だった。扮装は、小さな赤い獅子頭を頭に頂き、筒袖(つつそで)の着物に襷(たすき)を掛け、卍紋の入った胸当てをし、裁着袴(たっつけばかま)をはき、白い手甲をつけ、日和下駄(ひよりげた)を履いて、腹に腰鼓をつける。芸には、金の鯱(しゃちほこ)、蟹の横這(よこば)い、獅子の乱菊、淀の川瀬の水車などの一人芸と、二人一組芸の肩櫓(かたやぐら)、大井川の川越(かわごし)、唐子(からこ)人形の御馬乗りなどがある、

という(日本大百科全書)。江戸その他に進出して人気を集め、地歌、富本節(とみもとぶし)、長唄(ながうた)舞踊劇、下座(げざ)音楽長唄、所作事などの《越後獅子》もこれを素材とする(世界大百科事典)。

角兵衛獅子。江戸職人歌合. 石原正明著 (片野東四郎, 1900).jpg

(角兵衛獅子・江戸職人歌合 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E5%85%B5%E8%A1%9B%E7%8D%85%E5%AD%90より)

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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posted by Toshi at 04:09| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする
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