2020年08月12日

弑逆


高柳光寿『明智光秀』を読む。

明智光秀.jpg


明智光秀の言葉として伝わっているものがある。

仏の嘘は方便という、武士の嘘は武略という、土民百姓はかわゆきことなり、

と(老人雑話)。著者は、言う。

この言葉は合理主義からでなければ出ない言葉である。彼の合理主義は同じく合理主義的な信長とうまがあったであろう、

と。そして、

簡単に彼を保守的な人間と考えることは誤っていると思っている。そう思わせるのは、かれの合理主義だと思うのである、

とも。明智光秀も、

豊臣秀吉、
滝川一益、
荒木村重、
福島正則、
加藤清正、

等々この時期の武将と同じく、出自も、父の名も分明でない。少なくとも、しかし、秀吉とは異なり、

明智という名字、

は持っていた。

光秀の家は土岐の庶流ではあったろうが、光秀が生まれた当時は文献に出てくるほどの家ではなく、光秀が立身したことによって明智氏の名が世に広く知られるに至ったのであり…、そのことは同時に光秀は秀吉ほどの微賤ではなかったとしても、とにかく低い身分から身を起こした、

ということでもあった、と著者は書く。本能寺の変の後、奈良興福寺の塔頭多聞院主英俊は、

惟任日向守ハ十二日勝竜寺ヨリ逃テ、山階ニテ一揆にタタキ殺サレ了、首ムクロモ京ヘ引了云々、浅猿々々、細川ノ兵部大夫ガ中間にてアリシヲ引立之、中國ノ名誉ニ信長厚恩ニテ被召遣之、忘大恩致曲事、天命如此、

と記している(多聞院日記)が、その他、「永禄六年(一五六三)諸役人付」に載った足軽衆の中に明智の名があり、これが光秀ではないか、とされている等々あるが、いずれにしても、名のあるものではなかったことは確かである。

光秀の名が史書に見えてくるのは、永禄十一年(1568)七月に、足利義昭が朝倉義景のところから信長の招きによって美濃に赴いたときからで、この一件に光秀が関係していたのであるが、そのことは、しかし良質の史料には載らないものの、

『多聞院日記』や『原本信長記(信長公記)』などは義昭や信長を中心として記しているので、光秀のことは書いていない。またこの一件に関係した細川藤孝のことも見えていない。しかし光秀・藤孝の両人がこの一件に関係したことは事実であったらしい、

とある。細川実記には、

光秀は朝倉義景に仕えたときも五百貫文、信長に仕えたときも五百貫文と記している。これは騎馬(うまのり)の身分である、

とし、著者は、

義昭が美濃へ移った当時、光秀はすでに信長の部下となっていたことは事実とみてよい、

とする。光秀が良質の史料に登場するのは、永禄十二年(1569)四月十四日の、秀吉と連署の賀茂荘中当てた文書で、

賀茂荘内で前に没収した田畠は、少分ではあるけれども、御下知の旨に任せて、賀茂の売買升で毎年四百石ずつ運上せよ、また軍役として百人ずつ陣詰せよ、

という(義昭が承認した旨の)奉書を与えている。つまり。信長上洛の翌年には、光秀、秀吉とも、京都の政治に関与する、相当の身分になっていたことがわかる。

以後、異数の出世をし、天正八年(1580)の、佐久間信盛の追放の折檻状で、信長は、

丹波における光秀の軍功は天下の面目を施した、

というほど推賞した。その光秀は、翌九年六月二日付で、軍規を定め、

自分は石ころのように沈淪しているものから召出された上に莫大な兵を預けられた、武勇無功の族は国家の費である、だから家中の軍法を定めた、

と記した。しかし、その一年後、天正十年(1582)六月二日、光秀は本能寺の信長を襲う。光秀謀叛の理由は、

怨恨説、

を代表に、種々あるが、この謀叛が、長年練ったものではなく、細川藤孝・忠興父子への手紙に、

我等不慮之儀存立候、

とあるように、不意の決断であったことは、はっきりしており、著者は、

信長を倒すのには、今のような時期はまたと来ないであろう。天下を取るのは今だ、今をおいてほかにはない。香光秀は考えたのではなかろうか、

とし、

このようなことを彼は五月十七日安土から坂本に帰ったころからすでに考えていたであろう。そして坂本にいる間に熟考したであろう。しかし決断はつかなかった。二十六日坂本から亀山に入ったときも迷っていたに相違ない。そこで決断を神に依頼したのであった。神への依頼というのが愛宕山の参篭である。光秀は二十八日愛宕山にのぼった。そして運命の決定を勝軍地蔵の判断に任せたのである。幾度も籤を引いたというのは迷いに迷ったからであろう、

と記す。光秀は、

諸将の行動について十分検討を行い、彼らが敵対行動をとるにしてもすぐには光秀を攻撃することができない状態にあること、攻撃し來るとしてもその攻撃は短期日には決して強力であり得ないと計算した、

が、その予想を覆して、秀吉が、早くも十一日に尼崎に進出、十二日には先鋒高山重友勢が、山崎へと入ったのである。秀吉の、この予想外の急速上洛が、光秀のすべての思惑を吹き飛ばした。

明智光秀とは何者なのか。著者の言葉は痛切である。

光秀の伝記を書き了ってここに感慨なきを得ない一事がある。それは信長の行動を記さなければ彼の伝記が書けなかったということである。彼の行動は信長の意思によって制約されていた。彼は信長の意のままに動いていた。これは淋しいことである。完全に独立した人格の樹立。それの企図が同時に死であった彼である。

光秀が自分の意思で、光秀として立ったのは、信長へ謀叛であった。

参考文献;
高柳光寿『明智光秀』(吉川弘文館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:58| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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