2020年08月24日

通説を覆す


藤本正行『信長の戦争-「信長公記」に見る戦国軍事学』を読む。

信長の戦争.jpg


本書は、

「比較的に客観的・批判的に信長を把握する太田牛一の『信長公記』に依拠しつつ、『甫庵信長記』によって形成されてきた信長の合戦像の「常識」を一枚一枚はがして歴史の真実に迫ろうとする。その手段として、合戦の場を実地検証し、現場に合わせて史料を徹底的に解読していくという方法である」

と解説の峰岸純夫氏が指摘するように、これまで、『甫庵信長記』が創作した、

桶狭間の奇襲戦、
美濃攻め(墨俣一夜城)、
姉川合戦、
長嶋一揆攻め、
長篠合戦の鉄炮三段撃ち、
石山攻めの鉄甲船、
本能寺の変、

等々の通説となってきた、

信長の軍事的天才性、

の悉くを覆したとして、今日では一定の評価を得ている著作である。その根拠が、一級史料である、

信長公記、

なのだから、著者自身が、

「大方の常識を覆すこの見解が、単なる奇説として葬り去られなかった唯一の理由は、筆者がその論拠として信長の家臣、太田牛一の書いた『信長公記』を持ち出したからである」

という通りである。さすがに、今日、大河ドラマでも、桶狭間の合戦を、

奇襲、

として描くことはできなくなった。牛一が書いた記事は、

「信長が今川軍に正面から強襲をかけたとしか読むこときができないし、それはまた、当時の状況や戦場の地理などに照らしても納得できる内容である」

のである。

合戦当日、義元が沓掛城を出て西に進み、信長も清須城を出て、善照寺砦に入る。今川方に寝返った鳴海城、大高城等々を囲んで、構えた五つの付城(丹下・善照寺・中嶋・丸根・鷲津)の一つである。この砦を拠点に、兵力集結を図った。この間に、丸根・鷲津が落とされたことを知る。

「この城は、今川方の鳴海城の丘続きにある。両者の間隔は数百メートルにすぎない。善照寺砦からは眼下に中嶋砦を望むことができるし、その南には鷲津・丸根砦のある丘陵の北側が見える(鷲津・丸根砦自体は見えない)。この位置関係は非常に重要である。なぜならば、今川方は、鷲津・丸根を落とした時点で、ただちに両砦の北側まで占拠し、善照寺砦を監視下に入れることができるからである。したがって、信長が進軍中に、鷲津・丸根砦が落ちたことを知ったにもかかわらず、善照寺砦に入ったということは、彼が最初から、その行動を隠蔽する意思がなかったことをしめしているのである。」

そして、著者は、こう付言する。

「一般に、信長は最初から義元を奇襲で討ち取るつもりで、行動を隠そうとしたとされているが、現地には、信長が軍勢を率いて身を隠す場所などどこにもないのである。下手に身を隠そうとして消極的行動に終始すれば、勝てるチャンスも逃してしまうであろう。……実際には、信長は、善照寺砦に入ってから戦いが集結するまで、常に今川方から見えるところで行動するのである。」

このとき、今川義元は、

「四万五千引率し、おけはざま山に人馬の息をやすめこれあり、(中略)戌亥(北西)に向かって人数を備へ、」

と、沓掛城と鳴海城の間にある「桶狭間山」に休息している。信長は、

「中島へ御移り候はんと候つるを、脇は深田の足入り、一騎打の道なり。無勢の様体、敵方よりさだかに相見え候。勿体なきの由、家老の衆、御馬の轡の引手に取り付き候て、声々に申され候へども、ふり切つて中島へ御移り候。此の時、二千に足らざる御人数の由、申し候」

と、家老衆の止めるのを振り切って、中嶋砦へ移る。

「中島砦は川の合流点に築かれた砦で、付近では最も低い場所にある。そしてその南の鷲津・丸根砦のある丘陵や、東の丘陵は今川軍によって占領されている。したがって、信長の移動が今川方に気づかれぬはずはなく、それだけに『無勢の様体、敵方よりさだかに相見え候』という家老衆の言葉には実感がある。」

信長に奇襲の意図がなかったことがわかる一節である。

「桶狭間山の北西、わずか二キロメートル余に織田方の中嶋砦がある。桶狭間山と中嶋砦の間は浅い谷筋で直線的に結ばれているから、義元がこの危険な地形を無視したとは考えられない。彼自身は旗本とともに後方にいたとしても、その前方に一部隊を進出させ、中嶋・善照寺の両砦を牽制したはずである。現に『信長公記』に『戌亥(北西)に向かって人数を備へ』とあるではないか。今川軍は両砦に対して戦闘態勢をとったのである。」

その中で、信長は、中嶋砦から進撃する。『信長公記』はこう書く。

「中島より又、御人数出だされ候。今度は無理にすがり付き、止め申され候へども、爰にての御諚は、各よくよく承り候へ。あの武者、宵に兵粮つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵粮を入れ、鷲津、丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。こなたは新手なり。其の上、小軍なりとも大敵を怖るゝなかれ。運は天にあり。此の語は知らざる哉。懸らばひけ、しりぞかば引付くべし。是非に、稠(ね)り倒し、追い崩すべき事案の内なり。分捕なすべからず。打ち捨てになすべし。軍(いくさ)に勝ちぬれば、此の場へ乗つたる者は、家の面日、末代の高名たるべし。只励むべしと御諚……」

ただし、信長は「宵に兵粮つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵粮を入れ、鷲津、丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり」といったのは、誤解で、ここにいたのは新手の今川勢であるが。しかし、

懸らぱひけ、しりぞかば引付くべし、

とのみ指示し、

「敵の旗本を狙えとか、義元一人倒せなどという無茶を言っていない。目の前に今川軍が布陣しているこの時点で、そんな現実離れしたことを言っても仕方がないからである。」

で、攻撃に移る。『信長公記』には、そのありさまはこう描かれる。

「山際まで御人数寄せられ候ところ、俄に急雨(むらさめ)、石氷を投げ打つ様に、敵の輔(つら)に打ち付くる。身方は後の方に降りかゝる。沓掛の到下(とうげ)の松の本に二かい三がゐの楠の木、雨に東へ降り倒るゝ。余の事に、「熱田大明神の神軍か」と申し候なり。
空晴るゝを御覧じ、信長、鎗をおつ取つて、大音声を上げて、「すは、かゝれ、かゝれ」と仰せられ、黒煙立て懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れなり。弓、鎗、鉄炮、のぼり、さし物等を乱すに異ならず、今川義元の塗輿も捨て、くづれ迯(のが)れけり」

織田軍は東向きに進撃した。中嶋砦を出て東に進み、東向きに戦った。

堂々たる正面攻撃、

なのである。義元討ち取りのシーンは、真に迫る。

「天文廿一年壬子五月十九日
旗本は是なり、是へかかれと御下知あり。未剋(ひつじのこく 午後二時頃)東へ向てかかり給ふ。
初めは三百騎計り真丸になつて義元を囲み退きけるが、二、三度、四、五度、帰し合せ合せ、次第次第に無人(ぶじん)になりて、後には五十騎計りになりたるなり。信長下り立つて若武者共に先を争ひ、つき伏せ、つき倒ほし、いらつたる若もの共、乱れかゝつてしのぎをけづり、鍔をわり、火花をちらし火焔をふらす。然りと雖も、敵身方の武者、色は相まぎれず、爰にて御馬廻、御小姓衆歴々、手負ひ、死人、員(かず)を知らず。服部小平太、義元にかゝりあひ、膝の口きられ、倒れ伏す。毛利新介、義元を伐(きり)臥せ、頸をとる。」

と。なぜ『信長公記』の記事を素直に読めなかったのか、浸透した通説に紛れて読めば、正面攻撃も、奇襲としか読めなくなるのか。

墨俣城も三千挺の鉄炮の三段撃ちも、何れも、『信長公記』の記事をこそ、第一にして、検証すべきだということは明らかなのだが、まだ、

奇襲説、
三段撃ち、

を固執する主張が後を絶たない。悪貨という『甫庵信長記』が良貨『信長公記』を駆逐してきた長い年月をきれいにするにはかなりの時間がかかるらしい。

三段撃ちについては、火縄銃に詳しい人が、

「火縄銃の弾込めと火皿に口薬を盛る時間を、殆どの人が、十分か十五分を擁すると思い込んでおられる。このため長篠設楽原合戦の三段構えの射法という名論が生じてくる。が、実際は一分もかからない」

と書く(名和弓雄)。たとえば、

戦国末期から早盒(はやごう)と呼ぶ、弾と火薬を入れた筒状の物が用いられ、銃口へ早盒の蓋をとって火薬と弾を一気に注ぎ込み、槊杖(かるか)(鉛の弾丸を銃身の底に圧着させる鋼鉄棒)で数回突き固める。この弾丸込めと火皿に口薬を盛る時間までおおよそ二、三十秒。引鉄を引けば、瞬時に火縄挟みが落下し、火縄の先の火が火皿の起爆薬に点火されて爆発し、銃身内の薬持の盒薬が爆発して弾丸を飛ばす。この間一、二秒。熟練者なら発砲後次弾発射準備が十八~二十秒で完了する、

といわれる。三段撃ちなど迷論といわれる所以である。しかも、そんな記述は、『信長公記』には全くない。

鉄炮千挺ばかり、

とあるだけなのである。

参考文献;
藤本正行『信長の戦争-「信長公記」に見る戦国軍事学』(講談社学術文庫)
名和弓雄『絵でみる時代考証百科』(新人物往来社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:10| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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