草餅


「草餅」は、

くさもち、
あるいは、
くさもちい、

と訓む(広辞苑)。

米粉に、よもぎの葉を搗きまぜて、蒸し作れる餅、或は、おほばがらしを加へて、色を添う、

とあり(大言海)、

艾餅(よもぎもち)、

であり、

艾餻、

とも当てる。「よもぎ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/472964215.htmlについては触れた。

上巳(じょうし 三月三日)の供とす、

とある(仝上)。

古への、母子餅(ははこもち)の遺なり、

ともある(仝上)。鎌倉時代後期の「夫木抄」(夫木和歌抄(ふぼくわかしょう、夫木抄、夫木和歌集、夫木集とも)に、

花の里、心も知らず、春の野に、はらはら摘める、ははこもちひぞ(和泉式部)、

とある。「ははこもちい(ひ)」は、

母子(這兒)に供ふる餅の義ならむ、

とある(仝上)。「母子(ははこ)」とは、

這兒、

であるが、この流れは、「天兒(あまがつ)」から始まる。「天兒」http://ppnetwork.seesaa.net/article/460034293.htmlで触れたことと重なるが、「天兒」は、

「幼児の守りとして身の近くに置き、凶事をこれに移し負わせるのに用いる信仰人形。幼児用の形代として平安時代に貴族の家庭で行われた。『源氏物語』などの諸書には、幼児の御守りや太刀(たち)とともにその身を守るまじない人形の一種として登場する。1686年(貞享3)刊の『雍州府志』によると、30センチメートルほどの丸い竹1本を横にして人形の両手とし、2本を束ねて胴として丁字形のものをつくり、それに白絹(練り絹)でつくった丸い頭をのせる。頭には目鼻口と髪を描く。これに衣装を着せて幼児の枕元に置き、幼児を襲う禍や穢をこれに負わせる。1830年(文政13)刊の『嬉遊笑覧』には子供が3歳になるまで用いたとある。天児を飾ることは室町時代に宮中、宮家などで続いてみられ、江戸時代には民間でも用いられるようになった。また天児と同じ時期に発生した同じような人形に縫いぐるみの這子(ほうこ)があり、江戸時代に入ると天児を男の子、這子を女の子に見立てて対にして雛壇に飾り、嫁入りにはこれを持参する風習も生まれた」

とある(日本大百科全書)。室町時代の「御産之規式」には、

あまがつの事は、はふことも言ひ孺形(じゅぎやう)とも云ふ。是は若子の御傍に置きて、悪事災難を、このあまがつに負はするなり、若子の形代なり、

ともある。つまり、

稚児の身に副へおく、祓いの人形(ひとがた)、

であったものが、後世、

小兒の守として、枕頭に置くものとなり、幼児の形したる人形、

となり、

室町時代には白絹にて綿を包みて作り、江戸時代になると、尺余の竹筒に、白絹にて頭を作りつけ、又、尺余の竹筒を其下に横たへて、両肩とし、白絹の小袖を着す、小袖には、金銀にて、鶴・龜、松、竹、寶盡しなどを画く、

ようになる(大言海)。この「あまがつ」が雛人形につながるのだから、

後世此の餅をひなに供す、

となることになる(広辞苑)。

「ははこもちひ」は、

古へ、米の粉に、ははこぐさ(母子草)の葉を和し、蒸して製したる餅、

で、

又、今のくさもちひ(草団子)、後に艾餅(よもぎもち)の草餅となる、

とある(大言海)。『三代実録』の嘉祥二年(849)三月三日の条に、母子草を、

蒸しつきて糕(もち)とす、

とある(たべもの語源辞典)。これが、史書に現れた初見である。中国では、

鼠麹草(そきくそう)、

を用いていた。「ははこぐさ」の漢名である。そのため、昔は母子草を用いていたが、

室町中期頃から艾(もぐさ)

を用いるようになる。

よもぎ(艾)、

である。「母子草」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474409213.htmlについては触れたが、春の七草のひとつ、
「ごぎょう(御形)」のことである。「母子草」は、

臼と杵を陰陽と考える伝説もあって、母と子を同じ臼に付くことを忌む、

考え方から、母子草を用いることが廃れた、とある(たべもの語源辞典)。

「草餅」の起源は、中国である。

周の幽王が身持放埓のため群臣愁苦していたとき、三月上巳曲水の宴に草餅を献上するものがあった。王がその味を賞味して宗廟に献じしめた結果、國大いに治まって太平になったという。後にこれにならって祖霊に進めるようになったのが起源、

とされる(たべもの語源辞典)。荆楚歳時記によると、

6世紀ごろの中国では3月3日にハハコグサの汁と蜜(みつ)を合わせ,それで粉を練ったものを疫病よけに食べる習俗があった、

とされる(世界大百科事典)。これが日本に伝えられた、とみられる。

「草餅」の製法には二つあるらしい。

ひとつは、蒸した糯米(もちごめ)とよもぎとを搗き混ぜて作る。雛の節句の菱餅はこれである。

自家製よもぎ餅.jfif

(自家製よもぎ餅 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%89%E9%A4%85より)

いまひとつは、白米粉をこねて蒸籠で蒸し、別に茹でて細かく刻んだよもぎをまぜせて臼で搗く。あんころ餅などはこの法による。

草餅.jpg

(草餅 デジタル大辞泉より)

江戸では「草餅」といったが、京阪では「よもぎ餅」と呼んだらしい(たべもの語源辞典)。

ところで、「餅」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474462660.htmlで触れたように、「餅」(漢音ヘイ、呉音ヒョウ)は、

「『食+音符并(ヘイ 表面を平らにならす)』で,表面が薄く平らである意を含む」

で,中国では,小麦粉などをこねて焼いてつくった丸くて平たい食品,「月餅」の「餅」である。「もち米などをむして,ついてつくった食品」に当てるのは,我が国だけである。

餻、
餈、

も「モチ」のことである(たべもの語源辞典)。「餻」(コウ)は、「糕」とも書き、

餌(ジ)、

と同じであり、

もち、だんご(粉餅)、

の意である。「餈」(シ)は、

むちもち、もち米をむして搗きたるもち(稲餅)、

である(字源)。江戸中期の「塩尻」(天野信景)には、

「餅は小麦の粉にして作るものなり、餈の字は糯(もちごめ)を炊き爛してこれを擣(つ)くものなれば今の餅也、餻の字も餅と訓す、此は粳(うるしね)にて作る物なり」

とあり、江戸後期の「嬉遊笑覧」(喜多村信節)にも、

「餅は小麦だんごなり、それより転じてつくねたる物を糯といへり。だんごは餻字、もちは餈字なり。漢土にて十五夜に月餅とて小麦にて製することあり、よりて『和訓栞』に餅をもちひと訓は望飯(もちいひ)なりといへるは非なり、『和名鈔』に「糯をもちのよねと云るは米の黏(ねば)る者をいへり、是もちの義なり。故にここには餻にまれ餈にまれもちと云ひ餅字を通はし用ゆ」

とある(たべもの語源辞典)、という。つまり、「餅」が小麦粉で作ったものであることをわかっていて、日本の糯米(もちごめ)でつくるモチとは異なるが、借字として「餅」の字を使ったのである。だから、

団子、
と、
餅、

の区別も、「団子」http://ppnetwork.seesaa.net/article/475567670.htmlで触れたように、

米の粒のまま蒸して搗いたものをモチ(餅)、
粉をこねて丸めたものをダンゴ(団子)、

とする説(たべもの語源辞典)もあるが、

「団子は粉から作るが、餅は粒を蒸してから作る」「団子はうるち米の粉を使うが、餅は餅米を使う」「餅は祝儀に用い、団子は仏事に用いる」など様々な謂れがあるが、粉から用いる餅料理(柏餅・桜餅)の存在や、餅米を使う団子、うるち米で餅を作れる調理機器の出現、更にはハレの日の儀式に団子を用いる地方、団子と餅を同一呼称で用いたり団子を餅の一種扱いにしたりする地方もあり、両者を明確に区別する定義を定めるのは困難である、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E5%AD%90。つまり、「餅」といいつつ、糯米(もちごめ)を使っているとは限らない、のである。だから、

草団子、
と、
草餅、

の区別は、現物を見るまでつかない。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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