2020年09月03日

マージナル


村井章介『中世倭人伝』を読む。

中世倭人伝.jpg


本書の主役は、十五、十六世紀の李氏朝鮮の記録、『朝鮮王朝実録』に登場する倭人である。頻出する、

倭人、
倭賊、
倭奴、
倭、

等々と呼ばれる人々の活動範囲は、

朝鮮半島南辺、対馬・壱岐、済州島、西北九州、中国江南の沿海地方などをふくむ海域、

であり、これは、三世紀前の『魏志倭人伝』で、

倭人、

として登場し、九州を中心として、

朝鮮半島南部、
山東半島、
江南地方をふくむシナ海域、

までの広い範囲に広がっていた、中国人が、

倭種、

として、

形質・風俗・言語等の共通性に注目してくくった「倭人」の分布とほぼ重なっているのである。

朝鮮人や中国人があい変わらずかれらを「倭人」と呼んだのも、ゆえのないことではなかった、

のである。もちろん、

「倭寇」「倭人」「倭語」「倭服」などというばあいの「倭」は、けっして「日本」と等置できる語ではない。民俗的には朝鮮人であっても、倭寇によって対馬などに連行され、ある期間をそこでくらし、通交者として朝鮮に渡った人は、倭人とよばれている。海賊の標識とされた倭服・倭語は、この海域に生きる人々の共通のいでたち、共通の言語であって、「日本」の服装や言語とまったくおなじではなかった。
こうした人間集団のなかに、民族的な意味での日本人、朝鮮人、中国人がみずからを投じた(あるいはむりやり引きこまれた)とき、かれらが身におびる特徴は、なかば日本、なかば朝鮮、なかば中国といったあいまいな(マージナルな)ものとなる。こうした境界性をおびた人間類型を〈マージナルマン〉とよぶ。かれらの活動が、国家的ないし民族的な帰属のあいまいな境界領域を一体化させ、〈国境をまたぐ地域〉を創り出す、

その領域に侵食され、結局国が衰弱、滅んでいった李氏朝鮮の記録を中心に、本書は、

多様さと矛盾にみちた中世の「倭人」たちの群像を描き出し、そこから国家や民族、あるいは「日本」を相対化する視点をさぐること、

を目標の一つとし、さらに、

蔑視と恐怖、軽侮と脅迫といった要素を多分にふくむ両民族の…(中略)交流のすがたを、光と影のあやなす時代相として描き出すこと、

をもう一つの目標として、その交流の実態を象徴する、

三浦(さんぽ)、

という、

朝鮮半島東南部沿岸に成立した三つの倭人居留地ないし港町、

に局限して、描いている。

この時代は、前期倭寇と呼ばれる十四世紀の倭寇を、

一定の経済的給与とひきかえに投降をうながしたり(降倭・投化倭)、恭順の意を示した通交者に名目的な挑戦の官職を与えたり(受職倭人)、平和的な交易者として来朝するよう勧めたり(興利和人)、日本の諸勢力の使者という名義での来朝を許したりし(使送客人)、ばあいによっては国内居住を認めることもあった(恒居倭)、

というような懐柔策によって、あるいは、倭寇の根城の対馬征伐(応永の外寇)等々の軍事的な打撃によって、倭寇が下火になった時期に当たる。

朝鮮当局者が、

倭寇と通行者が同一実体の両面、

であると見抜いた結果の、硬軟取り混ぜての政策の対象となった「倭人」は、一筋縄ではいかない。著者はこう書く。

「辺民」が「倭賊」に侵されることに心痛していたソウルの高級官僚とはちがって、南辺の人々には、倭人との交じりあいを当然とする意識があったろう、

と。

そもそも人々は倭服を着、倭賊と称したのだろうか。朝鮮側記録には、

済州流移の人民、多く晉州、泗川の地面に寓し、戸籍に載らず、海中に出没し、学びて倭人の言語・衣服を為し、採海の人民を侵掠す。推刷(調査)して本に還さんことを請う、

あるいは、

此の輩(済州の鮑作人)、採海売買して以て生き、或は以て諸邑の進上を供す。守令は故を以て編戸して民と為さず、斉民も亦或いは彼の中に投じて儻を作す。人言う、「此の徒詐りて倭服・倭語を為し、竊かに発して作耗(賊を働く)。其れ漸く長ずべからざるなり」、

と。それは、

倭人との間になんらかの一体感を共有していた、

と考えないと解釈し得ない、と著者は書く。それは、

戸籍によって掌握することのできない人間集団、という共通性をおびはじめている、

と。その意味では、「倭人」を即「日本人」とは解釈できない。

倭人沙伊文仇羅(左衛門九郎)、
倭人而羅三甫羅(次郎三郎)、

と、倭人風の名を名乗っていても、

もと是れ我が国の人、

つまり朝鮮人であり、たから、

日本の倭人、

などという奇妙な表現で記されるほどである。こう記録にある。

加延助機〈倭の別種〉、博多等の島に散処し、常に妻子を船中に載せ、作賊を以て事と為す。面黒く髪黄いろく、言語・服飾は諸倭と異なる。射を能くし、又善く剣を用う。水底に潜入して船を鑿つは、尤も其の長ずる所なり、

と。日本の海賊だが、朝鮮側の認識では、

倭の別種であり、その言語・服飾も「諸倭」と異なっていたという。これはけっして日本の中央の、たとえば畿内あたりの言語や服装ではない。中央から見ても異様な言語・異様な服装であったに違いない、

のである。著者は、こう書く。

対馬あたりの海域で海賊行為を行っていた人々にとって、和服は共通のいでたち、和語は共通の言語だったのではないか。その服を着、そのことばを話すことによって、かれらは帰属する国家や民族集団からドロップ・アウトし、いわば自由の民に転生できたのではないか、

と。とすると、

倭寇は日本人か朝鮮人か、という問い自体、あまり意味がない。倭寇の本質は、国籍や民族を超えたレベルでの人間集団であるところにこそあるのだから、

と。まさに、

マージナル・マン、

つまり、

境界に生きる人々、

なのである。明の衰退にともなって登場する、

後期倭寇、

といわれる十六世紀は、

五島や平戸や博多の和人海商、たとえば王直を代表とする江南沿海地方の代海商、たとえばシナ海交易ルートに乗って、マラッカからマルク(モルッカ)初頭、広東、舟山諸島、琉球、そして九州へと進出してきたポルトガル勢力、

といった密貿易の役者たちによる交流は、

倭寇的状況、

と呼ばれるような、マージナルな人々のより大きな広がりへとシフトしていく。しかし、この、

中世のアナーキーな状態は、清や朝鮮、徳川幕府の海禁政策によって、

対外交通・貿易の国家管理が完成し(いわゆる鎖国)、……国家領域を超えて〈地域〉が存立しうる状況は大きく後退し、「倭人」たちも表舞台から退場する。

マージナル領域は、南北朝から、室町、安土桃山、と国内の混乱を反映していた、ということがわかる。その意味で「中世倭人」とは、言い得て妙である。

参考文献;
村井章介『中世倭人伝』(岩波新書)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:18| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください