2020年09月17日

紙碑


宮本常一『忘れられた日本人』を読む。

忘れられた日本人.jpg


著者は「あとがき」で、

無名にひとしい人たちへの紙碑(しひ)のできるのはうれしい、

と書く。まさに、

無名の人々の紙の碑、

である。特に、

名倉談義、
土佐源氏、
梶田富五郎翁、

が印象深いが、とりわけ、

土佐源氏、

は、創作かと思わんばかりの、その人の一生が、語られている。多くは、語りによって表現されているが、ふと、V・E・フランクルの、

人は誰もが語るべき物語を持っている、

という言葉を思い出す。その物語を聞き出す、著者の聴く力に敬服する。博労であったが、盲目となり、乞食になって、橋の下に住む語り手は、最後にこう締めくくる。

「婆さんはなァ、晩めしがすむと、百姓家へあまりものをもらいに行くのじゃ。雨が降っても風がふいても、それが仕事じゃ、わしはただ、ここにこうしてすわったまま。あるくといえば川原まで便所におりるか、水あびに行く位のことじゃ……。ああ、目の見えぬ三十年は長うもあり、みじこうもあった。かまうた女のことを思い出してのう。どの女もみなやさしいええ女じゃった。」


これを創作と疑った人に対し、「宮本氏は……採訪ノートを示して墳った」(解説・網野善彦)という。もっともだろう。ここまで赤裸々に語らせるには、並の人の聞き取り力では不可能なはずだからである。

橋の下の乞食の物語は宮本氏というすぐれた伝承者を得て、はじめてこうした形をとりえた、

のである(仝上・網野)。

著者は山村調査の方法について、こう書いている。

「……私の方法はまず目的の村へいくと、その村を一通りまわって、どういう村であるかを見る。つぎに役場へいって倉庫の中をさがして明治以来の資料をしらべる。つぎにそれをもとにして役場の人たちから疑問の点をたしかめる。同様に森林組合や農協をたずねていってしらべる。その間に古文書があることがわかれば、旧家をたずねて必要なものを書きうつす。一方何戸かの農家を選定して個別調査をする。私の場合は大てい一軒に半日かける。午前・午後・夜と一日に三軒すませば上乗の方。(中略)
 古文書の疑問、役場資料の中の疑問などを心の中において、次には古老にあう。はじめはそういう疑問をなげかけるが、あとはできるだけ自由にはなしてもらう。そこでは相手が何を問題にしているかがよくわかる。と同時に実にいろいろなことをおしえられる。「名倉談義」はそうした機会での聞取である。
 その間に主婦たちや若い者の仲間にあう機会をつくって、この方は多人数の座談会形式ではなしもきき、こちらもはなすことにしている。」

そして、

「私のいちばん知りたいことは今日の文化をきずきあげてきた生産者のエネルギーというものが、どういう人間関係や環境の中から生れ出てきたかということである。」

と。だからこそ、その一人に語りを深追いしていく。調査に反対している人のところへも行く。しかし、

「どうにもならなくて手をあげたという場合はすくない。これは私が前時代的な古風な人間であるからだと思う。そして相手の人が私の調子にあわせるのでなく、自分自身の調子ではなしてくれるのをたいへんありがたいと思うし、その言葉をまたできるだけこわさないように皆さんに伝えるのが私の仕事の一つかと思っている」

と。

まさに、「はなす」http://ppnetwork.seesaa.net/article/448588987.html?1490905148は、

放す(心の中を放出する)

である(大言海)。「かたる」との差は、

筋のある、
事柄や考えを言葉で順序立て、

というところになる。その中に、

庶民の「生活誌」(仝上・網野)、

がおのずと浮かび上がってくる。

「村の寄り合い」にある、村里内の話し合いは、

「今日のように論理づくめでは収拾のつかぬことになっていく場合が多かったと想像される。そういうところではたとえ話、すなわち自分たちのあるいて来、体験したことにこと寄せて話すのが、他人にも理解してもらいやすかったし、話す方もはなしやすかったに違いない。そして話の中にも冷却の時間をおいて、反対の意見が出れば出たで、しばらくそのままにしておき、そのうち賛成意見が出ると、また出たままにしておき、それについてみんな考えあい、最後に最高責任者に決をとらせるのである。これならせまい村の中で毎日顔をつきあわせていても気まずい思いをすることはすくないであろう。と同時に寄りあいというものに権威のあったことがよくわかる。
 対馬ではどの村にも帳箱があり、その中に申し合せ覚えが入っていた。こうして村の伝承に支えられながら自治が成り立っていたのである。」

とあり、そのゆったりとした時間の流れは、危機に際してもきちんと働くことは、中世、近江の「小さな共和国」http://ppnetwork.seesaa.net/article/468838227.htmlで触れた、琵琶湖畔の、

「集落が、乙名を指導者とする行政組織を持ち、在家を単位とする村の税を徴収し、若衆という軍事・警察組織を持ち、裁判も行い、村の運営を寄合という話し合いで進め、そのため構成員は平等な議決権を持つ、自治の村落」

であったことと通底する気がする。史料の言葉で、これを、

惣村、

と呼び、

「惣の目的は住民の家を保護することで、平等観念は一揆の原理」

と同じである。

参考文献;
宮本常一『忘れられた日本人』(岩波文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:26| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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