「はかま」は、
袴、
褌、
と当てる(大言海)。「袴」(漢音コ、呉音ク)は、
会意兼形声。「衣+音符夸(カ 股を開く、またぐ)」
とあり(漢字源)、
ズボンのように股が割れた衣服、
の意である。「褌」(コン)は、
会意兼形声。「衣+音符軍(丸く取り巻く)」。腰の周りにめぐらす布地、
である(仝上)。「褌」は、我国では「ふんどし」と訓ませるが、
ももひきの類、
したばかま、
の意で、やはり、股が割れたものを指す。なぜ「ふんどし」の当てたのかはわからないが、下着の意味から採ったのかもしれない。日本書紀に、
はらみやすき者は、褌(はかま)を以て體(み)に觸(かから)ふに、すなわちはらみぬ、
とあるのを、岩波古語辞典は、「ふんどし」の意と採っている。
「はかま」は、
穿裳(ハキモ)の轉(大言海・広辞苑)、
ハカ(履く)+裳(日本語源広辞典)、
穿く裳(日本語の語源)、
ハカはハク(穿)の古い名詞形。マはモ(裳)の母音交替形(岩波古語辞典)、
等々、
ハキモ(穿裳・佩裳・帯裳)の転(日本釈名・筆の御霊・言元梯・上代衣服考=豊田長敦)、
とする説が大勢だが、「はかま」の、
「はか」には、腰より下に帯をはく、「ま」にはまとうの意昧があり、元は腰に巻きつけられた布(犢鼻褌 とくびこん)であったものが、上衣の上につけ、腰から下を被うものになり、漢字も「袴」「褌」「婆加摩」「八加万」「穿裳」など、
種々の字を当てた、ともある(原ますみ「袴について」)。「犢鼻褌」は、
たふさぎ、
と訓ませ、
膚に着けて陰部を防ぐもの、
つまりは「ふんどし」のようなものである。
「日本書紀」には、
「袴」(神代)「褌」(雄略)があるが、古訓でいずれも「ハカマ」と読まれる。「新撰字鏡」(平安時代)には「褌」は「志太乃波加万」とあり、下ばきのズボン様のものをさしたらしい、
とある(日本語源大辞典)ので、「褌」の漢字の意味をなぞっていることになる。
古きは、陰處を掩ふものにて、製、猿股引の如きものか、後に、はだばかま(膚袴)と云ふものならむ、
ともある(大言海)。「さるまた」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/472053899.html)で、股引、ステテコ、パッチ等々については触れた。これが、
後には、「十巻本和名抄」にも見えるように専ら衣の上に着用し、腰から両脚をおおいかくすものをさすようになった、
とある(日本語源大辞典)。大言海にも、
後に、専ら、衣の上に用ゐて、腰より両脚まで被うべく寛くつくれる衣。紐にて腰に約し、二脚に當る所、分かれて袋の如し、表(うへ)の袴、指貫の袴あり、又、長袴、半袴、馬乗袴、行燈袴等あり、
とある。推測するに、「袴」が、外向きの衣になるにつれて、「褌」が下着のままとどまり、「ふんどし」に当てられたもののように思える。
袴の由来ははっきりしないが、「古事記」「日本書紀」に見られる、上古の「褌」は、我国では古墳時代より用いられており、各地で発掘された六、七世紀の埴輪の衣褌(きぬばかま)の容姿は中国の魏、晋、南北朝時代の北方諸族の服装で、防寒と乗馬に適するように作られた胡服系統の衣服である、
とある(原ますみ)。
原始から古墳時代の袴は、男子のみに用いられ、丈が足首までの太いズボンのような形式で、外出する時には膝下を脚結(あゆい)と言う紐で結んで活動の便をはかっており、女子はスカート状の衣裳を着用していた、
とある。「衣装(きぬも)」は、上半身に着る「衣」と下半身に着る「裳」の意であり(大辞林)、「裳」は、股のないものを指した(https://kimono-rentalier.jp/info/colum_hakama001)。
袴は、飛鳥、奈良時代は中国大陸文化の流入により、風俗が唐風に変化したため、
袴が細くなり、上衣も長くなり、裾口しか見えなくなり、
この頃、
ズボン式のもの、
と
現代のもんぺの形状に近い括緒袴(くくりおばかま)という裾口に紐を通して締めるもの、
の二様式に別れた(仝上)、とある。これが、
表袴(うえのはかま)、
指貫(さしぬき)、
に発展した(仝上)平安時代は、
貴族男子は礼装の束帯の時、下袴(したのはかま)の大口袴の上に白の表袴(うえのはかま)をつけ、表袴(うえのはかま)は前開き形式のもので、表は白、裏は紅、これにつぐ礼服の衣冠、直衣、狩衣を着る時にはく袴は下袴の上に指貫という、裾がひもでくくれる袴を上に履く、
とある(仝上)。「表袴」は、
白袴(しろばかま)と呼ぶのが本義であり、衣服令にも白袴と見えているが、下に大口袴を着けるために表袴と称した、
とある(有職故実図典)。「大口袴」は、略して「大口」とも言うが、
裾口を括らず広がっているためこの名がある。表袴(うえのはかま)の下に着用するいわゆる下袴、
である(仝上)。
(表袴 有職故実図典より)
「指貫」は、裾を紐で指し貫いて絞れるようにした袴である。
(指貫 有職故実図典より)
女性も宮廷の裳形式が変化して、
下袴が表袴に変り、十二単の装いとして緋の袴を右脇で紐で結んで穿いた、
とあり、袴はこの頃の女性の下着として用いられていた(仝上)。これは、
打袴(うちはかま)、
と呼ばれ、
男子の大口の拵えと同形にして、なお長く仕立てたもので、紐も一条で、前後の腰を廻らし、右脇に取り合わせて結び下げるのを特色とした、
が、既に近世と変わらず、
色目は紅を本義とし、紅袴とも称された、
とある(仝上)。
(打袴 有職故実図典より)
鎌倉時代は武家社会となり、直垂となり、下級武士では膝より上の丈の短い四幅袴(よのばかま)が用いられ、室町時代には直垂、大紋、素襖(すおう)が武士の礼服となり足を隠す風習が生まれ、安土桃山時代は衣服が簡略化され、女子は小袖に細帯、男子は肩衣半袴、礼服には長裃(ながかみしも)となり、江戸時代には袴の形状が変化し、腰幅に大して裾幅が広くなり、全体的に三角形に近いものになり(仝上)、現在は、
スカートのように間に仕切りのない筒状の袴を「行灯袴(あんどんばかま)」
ズボンのように2つに分かれている形の袴を「馬乗袴(うまのりばかま)」、
の二つのタイプがある(日本文化いろは事典)。
参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
鈴木敬三『有職故実図典』(吉川弘文館)
原ますみ「袴について」(https://bunkyo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=4640&item_no=1&page_id=29&block_id=40)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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