2020年10月18日
褌
「褌」は、
ふんどし、
と訓ませるが、
はかま、
とも訓ませる。「袴」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/477626984.html?1601235195)で触れたように、「褌」(コン)は、
会意兼形声。「衣+音符軍(丸く取り巻く)」。腰の周りにめぐらす布地、
である(仝上)。「褌」は、我国だけが「ふんどし」に当てるが、
ももひきの類、
したばかま、
の意で、やはり、股が割れたものを指す(漢字源)。なぜ「ふんどし」の当てたのかはわからない。日本書紀に、
はらみやすき者は、褌(はかま)を以て體(み)に觸(かから)ふに、すなわちはらみぬ、
とあるのを、岩波古語辞典は、「ふんどし」の意と採っている。
「ふんどし」は、「褌」の他、「袴」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/477626984.html)で触れたように、
犢鼻褌(たふさぎ)、
肌袴(はだばかま)、
とも言い、
下帯、
まわし、
とも言うが、「ふんどし」は、男性用ばかりではなく、女性の、
湯文字、
腰巻、
の意もある(広辞苑・江戸語大辞典)。
両脚を踏ん張って通すもの、
という意味(日本語源広辞典)で、
フミトオシ(踏通)の転(広辞苑・日本語源広辞典・大言海・筆の御霊・松屋筆記)、
とする説が大勢のようだが、
特に根拠はない、
とされる(語源由来辞典)。その他に、
フモダシ(絆)の義(嬉遊笑覧・俗語考)、
フントヲシ(糞通)の約(菊池俗語考)、
ホトシ(陰為)の義(言元梯)、
漢語「褌衣」の韓国語化「Hun-t-os」から(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q128446587)、
犢鼻褌(たふさぎ)は「股塞ぎ(またふさぎ)」「布下げ(たふさげ)」「タブ(樹皮布)裂き」から(仝上)、
等々あるが、「ふみとおし」以上にはいかない。
「踏通(ふみとおし)」「踏絆(ふもだし・馬や犬を繋ぎ止める綱)」「絆す(ほだす・動かないよう縄等で繋ぎ止める)」から由来するという、
説が一般的(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B5%E3%82%93%E3%81%A9%E3%81%97)なのだろう。
「ふんどし」を、
犢鼻褌(トクビコン)、
と当てた、
たふさき(ぎ)、
の由来については、
「股塞ぎ(またふさぎ)」「手ふさぎ(陰部を手で覆って隠す)」「布下げ(たふさげ)」「タブ(樹皮布)裂き」、
等々諸説あり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B5%E3%82%93%E3%81%A9%E3%81%97)、
アイヌ語で「タパ」と呼ぶのは同じ語源からくるのではないか、
ともされる(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q128446587)が、はっきりしない。
室町時代には、
手綱(タヅナ)、
と呼ばれ、秀吉が山崎の合戦後、堅田に隠れた光秀重臣斎藤利三(内蔵助)捕縛を、信忠家臣の高木彦左衛門宛手紙で、
斉藤内蔵助、二人子共相連、たつな斗ニて落行候節、郷人(きゃうじん)おこり候て、両人之子共首切り、蔵助ハ生捕ニ仕)、なわかけ来候条、於天下車乗わたしニて首切、かけ申候事、
と報じた手紙にも「手綱」と使われている。手綱は、
古くは手拭の俗称で、馬の手綱のように長い布という意であった。材料は、古くは麻布が用いられたが、江戸時代からは木綿布が普通となり、一部では、縮緬、緞子も用いられた、
とある(ブリタニカ国際大百科事典)。江戸時代初期からは、
下帯(シタオビ)、
とも呼ばれ、
ふんどし、
の名称が確立したのは江戸時代末期とする説もある(仝上)が、文献がなくはっきりしない。
なお、「犢鼻褌」について、大言海には、
犢鼻は、脛の三里の上の灸穴の名と云ふ、
とあり、日本釈名に、
犢鼻褌、貫也、貫両脚、上繁腰中、下當犢鼻、
とある。和名抄には、
犢鼻褌、韋昭曰、今三尺布作之、形如牛鼻者也、松子、毛乃太乃太不佐岐(ものしたのたふさき)、一云水子、小褌也、
とあり、その形から、「犢鼻褌」と言うらしいと分かるが、下學集には、
犢鼻褌、男根衣也、男根如犢鼻、故云、
とあるので、その形が似ているのは、「褌」ではないらしい。しかし、鹽尻(天野信景)は、
隠處に當る小布、渾複を以て褌とす。縫合するを袴と云ひ、短を犢鼻褌と云ふ。犢鼻を男根とするは非也、膝下犢鼻の穴あり、袴短くして、漸、犢鼻穴に故也、
とする。結局、灸穴の名に落ち着く。史記・司馬相如伝には、
相如身自著犢鼻褌、與保庸雑作、滌器於市中、
とあるので、「犢鼻褌」は中国由来らしい。このためああでもないこうでもないと、百家争鳴というところか。
「ふんどし」の一種に、
3尺の白木綿の布の一端を三つ折り縫いにし、他方を紐が通るように縫って紐を通してT字形にし、腰にあてて、紐を前で結び、布を股ぐらを通して紐の下より引き出し、前に垂らして着す、
という(日本大百科全書)、
越中褌(えっちゅうふんどし)、
があるが、幕末の『守貞謾稿』は、
「紐を通したる方を背にし、紐を前に結び、無紐方を前の紐に挟む也」
と、その装着法を記している。しかし、
本格的に普及したのは明治末期、
で、江戸時代にも
隠居した武士、肉体労働を伴わない医者や神職、僧侶、文化人、商人の間で用いられていた、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E4%B8%AD%E8%A4%8C)。その由来には、
越中富山の置き薬の景品で全国に普及したことに由来する、
越中守だった細川忠興が考案した、
大阪新町の越中という遊女が考案した、
等々の説(仝上)があるが、これもはっきりしない。忠興は剃髪後、三斎と号したが、三斎は、
畚(もっこ)ふんどし、
の発案者にもされている。
布の両端をそれぞれに紐が通るように縫い、紐を通し、片方は足を踏み通して、片方で紐を結んで着す。
ものだが(日本大百科全書)、
土を運ぶ畚(もっこ)に形状が似ているためこの名がついた。
江戸中期の『明良洪範』には、三斎の言葉として、死者の下帯のことを、
功者なる心掛けの者は、下帯の結び目の前に緒を付け肩にかく、或は、前のたれのはしに緒を付けて首にかけ、もっこふんどしと申して用ひ候、此みな死後にも抜け落ちぬ用心なり、
と語っているとか。『守貞謾稿』には、
簣褌、もっこふんどしと云は、形簣に似たる故也、前後を縫いて、是に紐を通し、或は左、或は右に結ぶ。女形俳優等に用之由を聞く、
とあるので、この時期は、一般化していなかったことがわかる。
因みに、戊辰戦争では、新政府軍は、越後口での戦死者に、
木綿の半襦袢一枚・ふんどし一筋、
を賜ったという。せめて死に装束だけでも、ということだったようだ。
参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
保谷徹『戊辰戦争』(吉川弘文館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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