軍事としての戊辰戦争
保谷徹『戊辰戦争(戦争の日本史18)』を読む。
本書は、
戊辰戦争の全過程を軍事史の観点からわかりやすく見通すことを目指している。いわゆる戦史そのものではなく、戦争をささえた体制や仕組みに注目し、かつ戦争や戦場の実態を「戦争の社会史」として描こうとした。また、戊辰戦争そのものが軍制上の画期となり、ライフル銃段階に照応するある種の軍事革命であった、
という著者のモチーフから描かれている。
第二次長州戦争で、官軍として幕府から動員された諸大名軍は、戦端を開いて、彼らに立ち向かってくる長州兵が、
これまでの常識にない新しい軍隊、
であることに驚く。それを、加賀藩士が、長州勢に攻め破られた小倉口の状況を、本藩に、こう書き送った。
長州勢は、押し出し候節は銃隊は駆足並にて押し来たり、発砲の矢頃に至り候えば、太鼓打ち止め、直に散兵と相成り、銘々物陰を撰びて手早く身を隠し、顔ばかり出し砲發致し、匍(ふ)せて進み寄り候由(略)、小銃は皆尖丸にて、柵杖を遣い候ことなく、巣口より玉を入れ、その台尻を地に突着して撃ち出し候故、至極弾込め早く御座候、散兵の働き手早なること各感心仕り居り申し候、大砲は尖弾・丸弾入り交じりこれ有り候由、旗は小旗に至って短き小旗壱本まで、槍は一本も御座無く、服は黒あるいは紺色の筒袖にて、羽織も多分は着用仕らず、笠は韮山笠を着用仕り居り候えども、戦さの節は雨中にても着用致さざる由、
と。つまり、長州勢は、
尖丸(尖頭弾)、
を用いた前込めの、
施条銃(ライフル)、
を装備し、
散開して、遮蔽物の陰から発砲する、
という戦い方で、槍など持たぬ、
すべてが銃砲隊、
であり、大砲もまた、
尖弾(長弾)、
のライフル砲が混じっていたのである。総合的に見て、両軍の差は、
滑腔銃(かっこうじゅう)、
と、
施条銃(せじょうじゅう)、
の差であり、それぞれの技術段階に照応した、
戦術・戦法、
また、
軍隊編成、
の差にあった。火縄銃や雷管ゲーベルは、ライフルがなく、球形弾を使用していた。ライフルとは、
ライフリングを施された銃身を有する火器である(すなわち、銃身内側に発射体に回転を与える浅い螺旋状の溝を有し、これによって飛翔中に安定させる)、
もので(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%8A%83)、ゲーベル銃とは、
前装式(マズルローダー式)、滑腔銃身(ライフリングがない)、フリントロック式(燧石式)、またはパーカッションロック式(雷管式)の洋式小銃である。日本では、幕末期に西洋軍制を導入した江戸幕府や藩が相次いでゲベールを購入した。1831年に砲術家の高島秋帆がオランダから輸入したのが始まりとされる。幕末の早い段階から輸入が開始され、すでに施条銃の時代となっていた西欧から旧式のゲベールが大量に日本に輸出された。また輸入だけではなく、火縄銃とは発火装置が異なる程度だったため各地で国産のゲベールが製造されたほか、火縄銃の発火装置を(燧石式を飛ばして直接)管打式に改造した和製ゲベールも見られる、
とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%AB%E9%8A%83)。
日本が開国した時期は、
欧米で急速な火器革命が進展した。小火器の分野では、フランスのミニエ大尉による拡張式弾丸の発明以来、装填が容易な前装施条銃(ライフル)が登場し、小銃はこれまでの50~100メートル内外の距離で使用されていたものが、射程が500~1000へと一気に伸びたことによって、400~500メートルの距離でも銃撃戦が交わされるようになった、
のであり、
列強が前装ライフル銃(ミニエ銃と総称)を装備するのが1850年代半ば、さらに後装銃に切り替えるのがその十年後、つまり戊辰戦争の直前に当たっていた、
のであり、日本は、新旧様々な小銃が、武器商人によって、持ち込まれていた武器の市場になっていた。
ライフル銃の、この射程距離では、もはや弓や槍は無用のものとなり、これまでのような、
大隊中心の密集部隊からの一斉射撃、
という戦い方から、
小隊や中隊を基本とする散兵して遠距離から狙撃する、
という戦い方(散兵戦術)に変化している。古くて射程の短い銃装備の密集部隊では、ただ標的になるだけである。
火器が新式になれば、戦術・戦法・軍編成も改める必要が出てくる。火器の一新によるこうしたパラダイム転換は、
ある種の軍事革命、
と考えることが出来る。現に、東征軍は諸大名への動員に際し、
銃隊・砲隊の外、用捨のこと、
隊長・指令・輜重掛等、実地用務の外、冗官用捨のこと、
等々と通達し、
幕府と異なり、新しい軍事段階に照応する戦力を明確に要求していた、
のであり、確かに、
一旦戦場に出てしまえば、射程の短い火縄銃やゲーベル銃の部隊では全く役に立たない。動員をかけられた諸藩は、長崎や横浜で必死に新式のライフル銃を求める、
ことになる。唯一、東北戦争で、征討軍の班内侵入を退けた庄内藩は、攻め返して秋田城を落城寸前まで追いつめ、孤立すると、藩内まで鮮やかに撤兵して、降伏した。これを可能にしたのは、いち早く新式鉄炮に対応した軍事体制を整えていたからである。
結局、最新兵器をいち早く整え、それに見合った軍制と、戦法を整えた薩長、土、肥等々西南諸藩に、ついに幕府側の準備は追いつかなかった、ということになる。それは、たぶん、単に兵器輸入の遅速の問題ではなく、トップの政治判断の遅速の問題ではなかったか、と思う。クラウゼヴィッツの言う、
「戦争」は,あくまで政治的目的達成の手段である、
に鑑みるとき、その前の段階から、どう準備するかも、政治力の中に入る。急遽将軍職に就いた慶喜には、時間が足りなかった憾みはあるが。
参考文献;
保谷徹『戊辰戦争(戦争の日本史18)』(吉川弘文館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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