終末論的瞬間


R・K・ブルトマン『歴史と終末論』を読む。

歴史と終末論.jpg


大学一年の時、確か一般教養の哲学で勧められて読んだのだが、何に感動したのか、すごく影響を受けたと思い込んでいた。しかし改めて読み直してみても、その感動が甦ってくることはなかった。多分、末尾の、

「わたしは歴史の意味を見ることができない。だから、歴史の中へ織り込まれたわたしの生は無意味である」と不平を言う人は、次のようにいましめられねばならない。あなたはまわりを見まわして普遍史をのぞきこんではならない。あなたは自分自身の個人的な歴史を見つめなければならない。歴史の意味は常にあなたの現在にあるのであって、あなたはそれを見物人にようにみることはできないので、ただあなたの責任ある決断においてのみ見なければならない。終末論的な瞬間である可能性が凡ゆる瞬間の中にねむっている。あなたはそれを目ざまさなくてはならない、と。

という、実存的な言葉に惹かれたのかもしれない。この言葉は、フランクルの、

そもそも我々が人生の意味を問うてはいけません。我々は人生に問われている立場であり、我々が人生の答えを出さなければならないのです、

とか、

どんな時にも人生には意味がある。未来で待っている人や何かがあり、そのために今すべきことが必ずある、

といった言葉を思い起こさせるところがある。しかし、読み直してみて、気づいたことは、主旨は、

宗教的な終末論、

が、

地上に降り、

世俗化され、ついに、

歴史の意味は常にある。そして、現在がキリスト教信仰によって終末論的現在として理解されるとき、歴史の意味が実現されるのである、

と、「いま」「ここ」の、

凡ゆる瞬間は終末論的である、

瞬間へと収斂する流れの中にある、ということである。だから、

パウロとヨハネによれば、終末論的なできごとは劇的な宇宙的破局として理解されるべきではなく、イエス・キリストの出現をもってはじまり、それにつながって歴史の中で繰り返し起こる歴史内の事件として理解されるべき、

ものとなり、

決断を要求する、

ものとなる。

神の恩寵によって自分自身から自由であるものとして、また自分の新しい自己をあたえられたものとしてわたし自身を新しく理解することについて決断する、

という、瞬間、瞬間が終末へと変じている、この歴史観の変遷の中から、人は、

到達点に立つことも、歴史の外に立つこともできない、

のであり、

歴史の内部に立ち、

如何なる現在の瞬間にも真実の生を所有することはできないが、常にその途上にありつつ、しかも自分自身から独立した歴史の進行によって左右されることのない人間の本性――これが歴史性である。凡ゆる瞬間は責任の今、決断の今である。このことから理性的必然性によって発展する進歩から成り立っているのでもない。というのは、歴史的経過は人間の責任、個々の人間の決断に課せられているからである。歴史の統一は未来に対すると同様過去に対する責任としてのこの責任に基礎をおいている。

のである。

未来に対する責任は、同時に、過去の遺産に対する責任を負う、

という、

一人一人の決断、

に、終末論的一瞬を収斂させたところに、本書の眼目がある。

歴史経過の凡ゆる現在の瞬間に歴史的全体が充満する、

からこそ、その瞬間が終末なのである。その意味では、その瞬間が、

世界審判、

でもある。

凡ゆる現在がそこから生じる過去は決定する過去ではなくして、解決もしくは展開を要求する諸々の問題を現在に提供するところの過去である。個人は己の状況を知ることによって自己自身を知るのである、

からこそ、

凡ゆる瞬間は責任の今、決断の今、

なのであり、その意味で、

凡ゆる現在の瞬間は終末論的瞬間、

なのである。それに比べれば、

歴史を自然や宇宙に準えて、周期的な自然的な、生成と消滅のリズムとして観察する、

ギリシャ・ローマ的な歴史観も、

現在の世界が終わり、新しい、終ることのない世界がもたらされる、

とするユダヤ的な終末論も、

キリストの受肉、十時か上の死、復活及び栄光化がはじまる、

とするキリスト教的な終末観も、

期待されていた世界の終わりが到来せず、「人の子」が雲に乗って天から現れず、歴史が進行して終末論的な共同体が歴史的現象になった、

ことによって世俗化し、

キリストの体としての教会、

が代わり、終末論は、際限のない未来へ移し入れられ、

受洗、

そのものが、終末へと矮小化されていく。それは、歴史の外に立つことではなく、歴史の中に立つことを求めることに変わった、と言ってもいい。終末論の世俗化の、

ヘーゲルの絶対精神の弁証法、

も、

マルクスの弁証法、

も、いわば、終末論の世俗化である。それが、

科学的進歩、

になり、

福祉、

になっても、

世界の歴史は同時に救済の歴史である、

という終末論の変形であることに変わりはない。

ヘーゲルとマルクスは、それぞれの流儀で自分が歴史の目標を知っていると信じ、この前提された目標の光の下で冷気の進行を解釈したのである、

しかし、そのいずれもが、

歴史の外に立っている、

のではないか、と。

参考文献;
R・K・ブルトマン『歴史と終末論』(岩波現代叢書)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

この記事へのコメント