「金山寺味噌」は、
径山寺味噌、
とも当てる。
中国径山寺の製法を伝えたのでこの名があるという、
とある(広辞苑)。
嘗味噌(なめみそ)の一種、
ともある(仝上)。
大豆と大麦の麹に塩を加え、これに細かく刻んだ茄子、瓜などを入れ。密閉して熟成させたもの、
である。
和歌山県有田郡湯浅待ちの名産、
という。紀州味噌工業協同組合における、「紀州金山寺味噌の定義」は、
金山寺味噌麹の原料は、大豆・裸麦(大麦)・米の三種類を、全量麹で使用したものに限る、
金山寺味噌の具材(野菜)は、白瓜または真桑瓜、茄子、生姜、紫蘇の四種類を必ず使用していること、
金山寺味噌麹と具材を仕込み時に漬け込み、熟成させたものであること、
等々と定めているらしい(http://www.kinzanjimiso.jp/about.html)。
「醤油」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/471986028.html)で触れたように、「醤油」と「味噌」は深くつながる。「なめみそ」とは、
ひしお(醤・醢)、
の意で、「醤」(漢音ショウ、呉音ソウ)は、
「会意兼形声。『酉+音符将(細長い)』。細長く垂れる、どろどろした汁」
で(漢字源)、
肉を塩・麹・酒で漬けたもの。ししびしお、
の意と、
ひしお。米・麦・豆などを塩と混ぜて発酵させたもの、
の二つの意味がある。前者は、「醢」(カイ しおから)、後者は、「漿」(ショウ 細長く意とを引いて垂れる液)と類似である(仝上)。
「醤は原料に応じさらに細分される。その際、原料となる主な食品が肉であるものは肉醤、魚のものは魚醤、果実や草、海草のものは草醤、そして穀物のものは穀醤である。なお、現代の日本での味噌は、大豆は穀物の一種なので穀醤に該当する」
が(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4)、中華料理の分野では、日本語でも、
ジャン、
と読むことが多い。「ひしお」は、醤の日本語の訓読みである。延喜三年(903)の『和名抄』に、醤の和名に
比之保」(ひしほ)、
が当てられている。「ひしお」は、
大豆に小麦でつくった麹と食塩水を加えて醸造したもの、
の意だが(日本語源大辞典)、
「醤の歴史は紀元前8世紀頃の古代中国に遡る。醤の文字は周王朝の『周礼』という文献にも記載されている。後の紀元前5世紀頃の『論語』にも孔子が醤を用いる食習慣を持っていたことが記されている。初期の醤は現代における塩辛に近いものだったと考えられている。
日本では、縄文時代後期遺跡から弥生時代中期にかけての住居跡から、獣肉・魚・貝類をはじめとする食材が、塩蔵と自然発酵によって醤と同様の状態となった遺物として発掘されている。5世紀頃の黒豆を用いた醤の作り方が、現存する中国最古の農業書『斉民要術』の中に詳細に述べられており、醤の作り方が同時期に日本にも伝来したと考えられている」
とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4)、これが「未醤」(みさう・みしゃう)と書いた味噌につながる。
「醤油は、醤からしみだし、絞り出した油(液)」
の意(たべもの語源辞典)の意であるが、室町時代に醤は「漿醤」となって、それに「シヤウユ」との訓読みが当てられた。現代の日本の醤油の原型は、味噌の液体部分だけを絞ったたまり醤油で、江戸時代に現代の醤油の製法が確立した(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4)。
「日本では、塩を海水からとったので、塩がすぐ溶けてしまう。そこで塩の保存法として食料品と塩とを合わせた。草醤(漬物になる)・魚醤(肉醤、塩辛になる)、そして穀醤(味噌になる)があり、奈良時代に中国から唐醤(からびしお)が入り朝鮮から高麗醤(こまびしお)が入ってくる」
ことで、
「701年(大宝元年)の大宝律令に官職名として『主醤』(ひしおのつかさ)という記載が現れる。なおこの官職は、宮中の食事を取り扱う大膳職にて醤を専門に扱う一部署であった。主醤が扱ったものには、当時『未醤』(みさう・みしゃう)と書いた(現代の)味噌も含まれていた。このことから味噌も醤の仲間とされていたことがわかる。
醤の日本語の訓読みである『ひしお』の用例は平安時代の903年(延喜3年)に遡る。同年の『和名抄』(日本最古の辞書)において、醤の和名に『比之保』(ひしほ)が当てられている。また927年(延長5年)に公布された『延喜式』には、醤の醸造例が記され、『京の東市に醤を売る店51軒、西市に未醤を売る店32軒』との旨の記述もある。」
ということになる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4)。
「多聞院日記」の1576年の記事では、
「固形分と液汁分が未分離な唐味噌から液を搾り出し唐味噌汁としていたとあり、これが現代で言う醤油に相当する」
と考えられる(仝上)。つまり、
「味噌ができると、その汁を『たれみそ』と称して用いた。『たまりみそ』とも『うすだれ』ともいった。醤油の現れる前は、たれみそが用いられた」
つまり、「たまり醤油」である。この「たまり」が「金山寺味噌」と関わる。「たまり」の発祥は、
「後堀河天皇の安貞二年(1228)に紀伊国由良、興国寺の開山になった覚心(法燈国師)が宋から径山寺(きんざんじ)味噌の製法を日本に伝えた。そして諸国行脚の途中、和歌山の湯浅の水がよいので、ここで味噌をつくり、その槽底に沈殿した液がたべものを煮るのに適していることを発見した。後、工夫して文暦元年(1234)に醤油を発明した」
と伝える(たべもの語源辞典)、とある。同趣は、
「醤油は中国からもたらされた穀醤,宋の時代に伝わった径山寺みそ,日明貿易で中国から輸入されたという説があるが,紀州湯浅での醤油は径山寺味噌から発しているという説が有力である。この説は三世紀に宋で修業をおさめた僧(覚心)が径山寺味噌をひろめ,その製作工程中の上澄み液や樽の底にたまった液を集めて調味料として利用したというものである。」
がある(https://www.jstage.jst.go.jp/article/cookeryscience/47/4/47_233/_pdf)。覚心が中国で覚えた径山寺味噌(金山寺味噌)の製法を、
「紀州湯浅の村民に教えている時に、仕込みを間違えて偶然出来上がったものが、今の「たまり醤油」に似た醤油の原型」
ともいう(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9)。しかし、その他に、
「伝承によれば13世紀頃、南宋鎮江(現中国江蘇省鎮江市)の金山寺で作られていた、刻んだ野菜を味噌につけ込む金山寺味噌の製法を、紀州(和歌山県)の由良興国寺の開祖・法燈円明国師(ほっとうえんみょうこくし)が日本に伝え、湯浅周辺で金山寺味噌作りが広まった。この味噌の溜(たまり)を調味料としたものが、現代につながるたまり醤油の原型」
とする説等々もある(仝上)。いずれにしても、経緯は別にして、
浙江省杭州にあった能仁興聖万寿禅寺(通称徑山寺)にて作られていたなめみその製法を体得し、帰国。高野山を経て、開山した紀州由良(現:和歌山県日高郡由良町)の鷲峰山興国寺の周辺に伝えた、
とされている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%B1%B1%E5%AF%BA%E5%91%B3%E5%99%8C)。2008年3月20日には、和歌山県岩出市の根来寺旧境内から、約430年前の金山寺みそが見つかった(仝上)、という。
「味噌」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/471986028.html)については触れた。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:金山寺味噌