2020年11月08日
世界と世界史
K・レーヴィット『世界と世界史』を読む。
著者の、次のことばは印象的である。
「何かを問うこと、そしてそれによってそのことを問題にすることは、与えられたものを超えて問う者だけができる。何かを問うことなしにそのまま受け取る者は、そのことを求め検べつつ問題にすることができない。問題にされうるのは、人が距離をおいたものだけである。(中略)距離をおくということは、世界および自分自身から離れていることによって、自分自身および世界の何の疑いもない自明的存在を放棄したことを意味する。そのように距離をおいて遠ざけることなしには、世界の解明は存在しない。(中略)動物も人間も無言で直接に苦痛を表すことができる。しかし人間だけが、何が苦しいかを言い、それによって自分自身および自分の苦痛に距離をおくことができる。距離をおくというこのすべての人間的態度を特徴づけることがらに、人が相対するものを対象化する可能性が存する。」
それは、「世界」や「世界史」という概念をつかむためには、この世界を、そして、その全体を対象化しなければならない。日本には、「世界」も「世界史」も、近代化する以前、つまり開国するまでは存在しなかった。今日の「世界」は、仏教語の「衆生が住む時空」の意味でしかなかった。つまり、日本には、今日言う、
地球上の人間社会全体、
という意の、
世界、
はなかった。世界が無ければ、
世界史、
もない。そういう対象化する者は、
「そのことによって、世界および自分自身から自分自身を疎外したことになる。人間は、他在にあって自分自身を失わずにいるためには、世界の中へ、何か他の見知らぬものの中へはいるように、よそ者として居をかまえることができ、またそうしなければならない。疎外という距離を保ちながら、人間は、存在するすべてのものに近づき、見かけの上ですでに熟知しているものを不審なものとして習得することができる。もし人間が、自分が浸透している自然と自分を包囲している世界から、それを不審なものと見るほど、自分を遠ざけることができず、植物のように大地に合生して、地面に根を張っているか、あるいは動物のように特別な環境に縛りつけられているとしたなら、人間は自分自身および世界に対して何らかの態度をとることも、自分自身および世界に、それが(自分自身および世界が)何であるかを、問うこともできないであろう。」
といういうマインドは、西欧的だが、それは、『鎖国―日本の悲劇』で、和辻哲郎をして、敗北によって,情けない姿をさらけ出した日本民族の,
科学的精神の欠如,
を嘆かせた「世界的視圏」,特に「視圏」の射程の短さを撃つ言葉につながる気がする。
そのマインドは、ギリシャの、ギリシャ語の「テオリア」、
知識のための知識欲、
から始まる。「実際的に有用な目標をもたない純粋な知識欲」は、
あるものから距離を保つ、
ということが本質的な特徴である。
「あるものから距離を保つということは、世界の中における習慣的な生活から遠ざかったことを意味する。そのように遠ざかって距離を保つことがなければ、いかなる世界解明も存在しない。(中略)そこに、人がある態度をとって対するものの対象化の可能性が存する。」
そして、
存在するものの全体を包括的に把握する者を、
哲学者、
と呼ぶ。
「事物がそのようにあって別のようにあるのではないということに驚異することができる」
それは、
「可視的な世界の驚くべき事実、太陽の規則的な運行、月の盈虧(えいき)と星の運動、一般に天界、そして地上で発生し消滅しながら生きている一切のもの」
に向けられる。ここには今日言う「歴史」はない。経ていく時間は「宇宙」(コスモス)の循環の一つでしかない。アリストテレスは、
「『世界』は、コスモスと同時にウーラノスをも意味する。そのさいウーラノスはもっと外側の天球の包括的なものを、コスモスは包括されたもののそれ自身において組織されたものを表す。両者はあわせて、世界秩序としての世界、宇宙の秩序づけられた支配と管理を表す。」
という世界を描く。ギリシャ人にとって、
死すべき人間に対する永遠の天界、
は、人とは別の世界であり、そこには、
世界史、
は存在しない。しかし、
「ユダヤ教とキリスト教が超世界的な創造者たる神に対する人間の関係に問題を集中してコスモスを軽んずる用になって以来、世界は世界史になってしまった。」
のであり、
「人間があらゆる被造物のなかで神の唯一無類の似姿であり、あるいは選ばれた民として神と契約を結んでいるものとすれば、人間は世界においてある特別な地位――人間のみを神的なものと同類のものたらしめ、『神の死』の後に地上の創造主にするような地位――を占めることになる。」
つまり、「世界」は、ギリシャ的「コスモス」から、
「神によって意欲された創造から、人間のための人間世界になる。」
という、「救済」のための「世界史」になる。この、
救済史、
つまり、
神的な始りから神的な終わり、
を、
約束からその実現(最後の審判)への前進、
とみなしたことが、
ヘーゲルの世界精神の現実化、
という、
キリスト教的信仰の世俗化をもたらし、それが、マルクスの、
史的唯物論、
という終末論の世俗化を理論化に至らしめた。しかし、こうした「何かを目指している歴史」という考え方、
歴史主義、
は根深く、
「もろもろの理念、神、道徳律、理性の権威、進歩、支配者の幸福、文化、文明などがその建設的な力を失い、無価値」
になったとし、
「人間は歴史的に制約されているのみならず、根本的に歴史的に存在する――つまり人間は徹頭徹尾時間的な存在だからである。歴史的な意識と伝達の可能性は、ハイデッゲルによれば、人間的実存――それの時間性がもっとも決定的に表現されるのは、それが死を予想して実在している、あるいは『終わりに向かう存在』である、という事実においてである――の総体的かつ徹底的な歴史性に存する。」
とするハイデッガーですら、
「存在そのものは『存在の生起』であり、その真理は真理の生起であり、歴史的な出現と隠伏はそれぞれ、そのさどの決定的な瞬間に変化する『現前』と『不在』である」
と、言ってみれば、時間軸を短くし、終末を、「存在の運命」の瞬間に貶めただけのように見える。だからこそ、ヘーゲルとハイデッガーとは、「異なるものではない」と、著者は言ったのであろう。
「両者は精神史的歴史主義と存在史的歴史主義の同じく近代的な思い上がりの中で動いている。」
と。
「世界は、われわれが『世界の中に在る』というそのつどの歴史的な事実を超えて、存続する。世界と世界史は互いに等置されているのでもなければ、おのずから生きている人間がただちに歴史的実存なのでもない。哲学が昔から要求してきたように、全体において存在するものを単に言葉の上だけでなく真に考察する者は、世界を世界歴史で狭めようとすれば、かならずその主題を取りはずすことになるであろう。ヘーゲルの形而上学的歴史主義、マルクスの歴史的唯物主義、ハイデッゲルの『存在の定め』(中略)はいずれも、人間から出発するがゆえに、世界の理解のためにはひとしく不十分である。」
とし、こう言う。
「おのずから存在するコスモスの全体においては、すべての人間的な言説、すべての饒舌は、自然をつらぬいている無言の沈黙の音のない声を中断するものにすぎない。」
と。ふと、今日の宇宙論においても、同じく「人間から出発する」発想の、「人間原理」(http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-6.htm#%E4%BA%BA%E9%96%93%E5%8E%9F%E7%90%86)理論を思い出したように、
「世界を世界史と、そして世界史を人間の作ったものと、取りちがえる」
のは、いまも生きている。
著者は、最後に、
「われわれが知識を有する以前には、山や川が単純に山や川であり、それ以上の何物でもないように見える。われわれがある程度の洞察を獲得すると、山や川は山や川以上の何物でもないことをやめる。……しかしわれわれが完全な洞察に到達すると、山はふたたび単純に山になり、川はふたたび単純にかわになる。」
という禅語を引く。それは、
このようにあって別のようにない、
という世界の承認へとたどり着く。道元の、
而今(じこん)の山水は古仏の道どう現成(げんじょう)なり。ともに法位住じゅうして、究尽の功徳を成ぜり、
という
今、眼前の山水の自然の姿はそのまま仏の悟りであり、それ以上の教説はあり得ない、
と通ずるが、対象化するプロセスを経ていないものは、修行前の「山と川」しか見ることはできないのである。その差は大きい。それは痛烈な警告である。
参考文献;
K・レーヴィット『世界と世界史』(岩波書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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