2020年11月16日
三成像
白川亨『石田三成の生涯』を読む。
本書は、津軽藩(三成辰姫の子が三代津軽信義)の、三成の裔する三家(杉山、山田、岡家)に連なる著者が、
津軽杉山家の伝承を継承させる、
役割とりしてまとめた。で、
石田三成の生涯、
石田三成とその一族、
の二編にわけて、その検証を図ろうとするものだ。特に、本書が見直しを図ろうとする、江戸時代、特に『甫庵太閤記』等々によって流布された佞臣三成像は、もはや今日、主流ではないが、それでもなお、
太閤の側近にあるを幸いとして、賢良の士を害し、正義の士を賊して大綱に迎合した、
小才子、才に溺れた、
とする説は底流にある。著者は、(大谷)吉継、三成ほど、
愚直で、一途で、要領の悪い人間はいない、
と理解できるようになったとする。これも、もはや、今日、通説に近くなっている。『老人雑記』の、
奉公人は主君より禄を拝領しても、残してはならない。残すのは盗である。また、使い過ぎて借財するのは愚人である、
とか、『甲子夜話』の、
三成は日頃節約を旨として冗費を省けり。その佐和山城の如きも、当時二十三万余石の大名の城としては、建築全般質素なりき。城の居間なども、大概は板張りなれども、その壁は粗壁なりき。また庭園にも樹木の物好きなく、手水鉢なども、粗末な石なりき。当時の人々、城内の様子を見て、すこぶる案外と感ぜしと云う。去れど決して吝嗇ならざりき。吏務に長じたる三成の事なれば、固より処世の原則たる、「入るを計り出るを制する」の注意は寸時も忘れざりき、
等々は、よく知られている。個人的には、三成は、
信長死後、秀吉と対抗した柴田勝家、
に比すべき人物かと思っている。良くも悪くも、豊臣家あるいは織田家の安寧をはかろうとする三成や勝家と比べ、天下を視野に入れている秀吉、家康とは、戦う土俵を異にしていた、と思う。
三成出陣に際して、
散り残る 紅葉はことに いとおしき 秋の名残は こればかりとぞ
と詠んだとされる。意図は明らかである。朱子学の理屈から言うなら、水戸光圀が『西山遺事』で、
石田治部少輔三成は、憎からざる者なり。人各々其の仕うる人の為に、義によって事を行う者は、敵(かたき)なりとて憎むべからず。君臣共に、よくこの心を体すべし、
という通りなのである。
著者は、結論として、三成の挙兵について、「聖戦であったのか」という疑問を、個人的見解として
第一は、秀吉晩年の子として生まれ、その盲愛の中に育ち、秀吉没後は大坂城で真綿にくるまれ、しかも淀君周囲の阿りの中で、果たして天下統治の器量ありや否や、
第二は、三成の純粋な豊臣家想いの真情が、当時の彼の政治的・経済的力量をもって、群雄多き中に於いて果たして何処まで貫き、それを推し通せるか、
第三は、たとえ関ヶ原に於いて勝利を得たとしても、その結果は長期戦の様相を呈することは必然であり、やがて戦国乱世の時代に逆行する可能性が濃厚である。その場合の最大の被害者は民百姓であり、わけても社会的弱者たる老人や女子供である、
と述べ、まとめとしている。しかし、このまとめには疑問を感じる。本書を通して感じたことだが、
俗説にまみれた三成像を見直す、
という意図のわりに、第一の、
淀君、
秀頼、
周辺については、その俗説に則って批判的で、もちろん本書の主眼でないにしろ、資料的検証をしないままにその俗説に基づく貶めたイメージで論を進めている。
さらに、第三の、関ケ原合戦についても、江戸期の俗説をそのまま踏襲して、明らかに東軍側に加担した俗説にもとづいて展開しているだけである。ついでに言うなら、
秀次、
については、もっとひどく、ほぼ俗説のまま、その非を咎めている。
ここでいう俗説とは、三成のそれと同様に、江戸時代に敵役として創り上げられた説であるにもかかわらず、秀次像、秀頼像、淀君像をつくりあげている史料を再検討しようともしていない。三成がそうであるなら、秀次、淀君、秀頼も、同じように貶められていると疑って然るべきであり、江戸期に拵えあげられたそのイメージを疑うべきではなかったか。このことは、三成像の見直しと言いつつ、結局、
身内の身びいき、
としか見られなくなる、ということに著者はいかほど御自覚があるのであろうか。結果として、折角の、
三成像見直し、
の論旨にも、偏りを感じさせてしまう気がしてならない。江戸期の俗説を振り払うためには、ただ三成のみを抽出して、その身を洗い直しても、その周囲の状況そのものも、改めて家康側視点から抜け出して、見直していかなくては、本当の三成の見直しにはなるまい、と思う。もちろん、専門の歴史家ではない著者にそう申し上げるのは、酷なのは承知の上で。
なお、「関ケ原合戦」については、
「戦術の勝利、戦闘の敗北」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/478046901.html)、
「関ヶ原の合戦」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/470429722.html)。
豊臣秀頼については、
「秀頼」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/408642088.html)、
豊臣秀次については、
「秀次」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/440783746.html)、
「秀次の切腹」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/453454065.html)、
小早川秀秋については、
「秀秋」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/451148221.html)、
で、それぞれ触れた。
参考文献;
白川亨『石田三成の生涯』(新人物往来社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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