2020年12月01日

三成の裔


白川亨『石田三成とその子孫』を読む。

石田三成とその子孫.jpg


「あとがき」にあるように、

「私の二十年に及ぶ石田三成の足跡追及の旅も、本書をもっておわることになる」

とあるように、

白川亨『石田三成の生涯』http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-11.htm#%E4%B8%89%E6%88%90%E5%83%8F、白川亨『石田三成とその一族』http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-11.htm#%E4%BC%9D%E6%89%BF%E3%81%AE%E6%A4%9C%E8%A8%BC、と続いた著作のまとめと補綴の役割を果たす本であるが、他の著作と比べて、複線化しておらず、筋がシンプルで、いちばん読みやすい。探索の積み重ねの成果かもしれない。本書では、

関ヶ原戦後の北政所の心の変遷と、北政所に近侍した人々との決別の背景、

徳川家康と石田三成は、徳川家康の六男・忠輝の生母於茶阿方を介して姻戚関係にありながら、豊臣本位制を貫かざるを得なかった三成の心の葛藤と、併せて徳川家康の関ヶ原戦後の心の変遷、

家光の乳母として江戸城入りした春日局が、石田三成の次女の孫(お振り)を自らの養女として、家光の最初の側室にした背景や、お振りの方の祖母・祖心尼と春日局の密接な関係、

等々に焦点を絞り、これまでの補足としている。

北政所は、通称武断派と呼ばれる人たち(福島正則、加藤清正等々)に、家康に味方するよう命じたとされるのが通説(?)とされる。しかし、本書では、北政所周辺の人々の去就について、こう書く。

「北政所の……兄の木肥後守家定をはじめ、その子供たち(細川忠興の妹婿・木下延俊と、出家した紹叔を除く)全員が西軍として戦い、戦後失領しており、特に木下秀規は『大阪夏の陣』には大坂城に籠城、豊臣家に殉じている。(中略)北政所の側近一号東殿局は大谷吉継の母であり、執事の孝蔵主一族は、孝蔵主が親代わりとして養育した子供たち全員が、西軍として戦っており、孝蔵主の末弟河副源次郎正俊は三成と同陣して西軍として戦っている。」

つまり、この事実が通説を痛撃している。通説というものが、学者の怠慢であり、如何に前例踏襲しているかの見本だということだ。この文脈の中で、面白い記述は、

「徳殿とは孝蔵主の姪であり養女であり、秀吉の生前に北政所と秀吉の請いにより秀吉の側室となり一女を生した方である。秀吉の死後慶長三年(1598)、河副家の郷里(近江野田庄)に帰るが、不幸にして翌慶長四年正月病死している。その一女は丹羽家の家臣・島井伝右衛門に嫁ぎ三女を生し、その三人の娘は丹羽家の家臣・島井勘右衛門、成瀬三郎左衛門、駒塚茂兵衛に嫁ぎ、その子孫は今日に続いている。したがって太閤秀吉の血流は女系ではあるが今日まで続いていることになる。」

という伝承(河副家文書)があることだ。こういうことは、この著者のような血脈を辿ることに執念を燃やした人にしかたどり着けないことなのだろう。真偽は別として、実に愉快である。

三成の次女は、北政所に仕えて、後に上杉家の家臣に(蒲生家の移封に伴い)転じた岡半兵衛重政に嫁したが、この半兵衛は、孝蔵主の義甥にあたる。

「孝蔵主の長甥・河副久左衛門正真の嫁が岡半兵衛の姉であり、岡半兵衛の妻が石田三成の次女であり、……(津軽家へ嫁いだ三成三女・辰姫は)孝蔵主や於茶阿(忠輝生母、三成長女の婿山田隼人正勝重の叔母)にとって義姪にあたる。」

と、ここで家康と三成とが姻戚関係になる。この真偽は、著者の著書に当たって確かめてみてほしいが、あり得ないことではない、と僕は思う。武家の世界は、結構狭い。

三成の人となりを考えるとき、家康の、

「若江の八人衆はかつて秀次の家臣なり、秀次は石田治部の讒言により切腹させられたという、ところが若江の八人衆は関ヶ原では石田治部と共に戦っている」

が残したとされる言葉が興味深い。甫庵太閤記の残した惡名は、ひとつひとつの事実の積み重ねで、ちょうどオセロゲームのように、一気にひっくり返る気がする。つくられたイメージは、綻びがある。石田一族の墓塔を建立し供養を続けた春屋宗園、佐和山に「赴かんとするの志ありしも、(関ヶ原合戦で)果たさざりし」という藤原惺窩にしろ、三成が亡母のために建立した瑞嶽寺に一年とどまった沢庵にしろ、三成周辺の人々の三成への親和度は並々ならないものがある。

「石田三成の一族のその後を追い続けて感じたことは、その庶子や甥までを含め、その殆どに諸侯が保護を加えている。佐竹藩はもちろん岩城藩、山内一豊の甥・山内一唯、相馬義胤の相馬藩、さらには津軽家とは犬猿の仲とされる南部藩でも、佐野分藩七戸藩の重臣に起用している。『姦佞の輩』と呼ばれる人間は、『権力に取り入るのが巧みであり、その反面、弱い者を苛める』のが一般的である。苦境に立つ人々には決して手を差し伸べないのが特徴である。」

という著者の感慨が印象的である。それは、水戸光圀が『西山遺事』で、

石田治部少輔三成は、憎からざる者なり。人各々其の仕うる人の為に、義によって事を行う者は、敵(かたき)なりとて憎むべからず。君臣共に、よくこの心を体すべし、

と言う、武家社会に通底するイメージだったのかもしれない。朱子学に則る限り当然の帰結かもしれない。

著者は「おわりに」に、

三玄院の三成の墓碑には四百回忌の法要を行った卒塔婆が三本供えられていた。しかも三本とも木下姓の方々である。恐らく北政所の兄、木下家定公のご子孫と考えられる。」

と書く。心に響くエピソードである。

参考文献;
白川亨『石田三成とその子孫』(新人物往来社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:51| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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