「あたりきしゃりき」は、
あたりきしゃりきのこんこんちき、
とか、
あたりきしゃりき車引き、
と言ったりする。「こんこんちき」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/478473295.html)については触れたが、「あたりき」は、
(職人のことば。主に明治期に用いた)「あたりまえ」を語呂よく言った語、
とある(広辞苑)。
あたりきしゃりき車引き、
は、
あたりまえであるということの語呂合わせ、
だが、
「き」は単なる言葉癖で、「りき」から語呂合わせで「車力」を出しています、
と絵解きしている(落語あらすじ事典)ところからも、明治以降の言い方なのは確かであるが、
江戸・東京の職人言葉で「あったりめえよ」といったところ。「あたぼう」と同義です、
ともあり(仝上)、「江戸ッ子」気質が残っていたということのようである。
昭和中期辺りまでは「あたりきしゃりき」まではまだ使われていました、
ともある(仝上)。ずいぶん昔、まだモノクロテレビ時代の『てなもんや三度笠』という番組で、
俺がこんなに強いのもあたり前田のクラッカー、
と言って、あんかけ時次郎役の藤田まことが、一世を風靡したが、この
あたり前田のクラッカー、
も、
あたりまえ、
にスポンサーの前田製菓に引っ掛けた地口(じぐち)だったが、これもそれと同類になる。「あんかけ時次郎」自体が、長谷川伸の、
沓掛時次郎(くつかけときじろう)、
のもじりであり、パロディになっている。「もじり」は、
捩(もぢ)り、
とあて、「もじる」の原意は、
よじる、
ねじる、
だが、
(諷刺や滑稽化のために)元の文句、特に有名な詩句などを、他の語に似せて言い変える、
意である(広辞苑・大言海)。この語源は、
モトリチガフの義(和句解)、
モトル(戻)の義(言元梯)、
モジ入るの意。モは数奇の意、ジは数多く渡り領る意(国語本義)、
等々とある。「もぢ」に、
綟
とあて、
麻糸をもじって目を粗く負った布、
の意があるが、
錑、
とあて、
錑錐(もじぎり)、
の意の、
先が螺旋(らせん)状をし、丁字形の柄をまわしながら穴をあける錐、
で、
南蛮錐、
もじ、
もじり、
というものがある(大言海・デジタル大辞泉)。
南蛮錐、
という名からみて、室町末期のものとみられ、日葡辞書に載る「もじり」と重なる。深読みかもしれないが、
よじる、
ねじる、
よりは、
孔を穿つ、
含意を採りたい気がする。
地口、
の語源については、江戸語大辞典は、
土地の口合(くちあい)の意、
似通った詞の意の、似口(じぐち)、
の二説を挙げる。
ヂ(地)は江戸の意で、グチ(口)は言葉の意。「当地の口あひ」の略(兎園小説外集・俚言集覧・三養雑記)、
は、前者である。他に、
モヂリが本義で、モヂグチの略(嬉遊笑覧)、
という説もある。
似口(じぐち)、
は面白いが、「似」(漢音シ、呉音ジ)で、「ヂ」とは訓まないのではないか。「地」(漢音チ、呉音ジ(ヂ))の、
「土地の口合(くちあい)」を意味し、京阪で行われた「口合」に対し、享保(1716~36)の頃江戸で流行ったものを指す、
とするのが妥当のようである。「地口」は、
同音意義のしゃれ、
の意だが、
語呂合わせ、
と区別するときは、原句の一語一語を五十音図の各行各列いずれかに通じる他の語に言い換え、意味のまったく異なる別の句にするものをいい、その規則の寛大なものを語呂合わせとするのであるが、実際上両者の区別は厳格に守られてはいない、
とある(江戸語大辞典)。
当初は語に二重の意を重ね合わせる単純な言語遊戯であったが、より長い文句の一語一語を、五十音図の各行各列のいずれかに通ずる後に置き換えて滑稽な句をつくるものをさすようになる、
とある(日本語源大辞典)のは、その意味である。「地口歌」は、たとえば、
今はただ思ひたえなんとばかり人づてならで言ふよしもがな(左京大夫道雅)、
を、
いやあはや思ひがけないとびっくり一つ目ならで幽霊下(しも)がねえ、
といった具合である(江戸語大辞典)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:あたりきしゃりき