2020年12月23日
菱餅
「菱餅」は、
熨斗餅を菱形に切ったもの、
で(大言海)、
鏡餅に戴す、
また、
餅を菱形に切りて、三枚重ねたるものは、三月の雛祭りに供す、
とあり、これは、
小笠原氏の家紋の、三蓋菱に因(ちな)めるものかと云ふ、
とある(仝上)が、それは間違いで、
菱形は、桃の葉をかたどったものである、
とある(たべもの語源辞典)。「鏡餅に戴す」というのは、古く、
鏡餅の上に菱餅を載せる、
風習があり(http://kameyamarekihaku.jp/sisi/MinzokuHP/jirei/bunrui8/data8-1/index8_1_1_2.htm)、御所では、
2段重ねの餅の上に薄く丸いはなびらという白い餅が12枚、上に高黍菱餅、さらに砂金餅、伊勢海老がのせられています(https://ameblo.jp/chocola0927/entry-10195189166.html)、
とか、
加賀藩・前田家の鏡餅。城内床の間に飾られる鏡餅は丸い紅白鏡餅の上に菱餅を12枚その上に丸餅を16枚、ほんだわら、熨斗鮑、昆布、串柿、橙。水引結びの伊勢海老と金塊に砂金袋がのせられ、譲り葉、裏白が飾られます(仝上)、
という例がある(仝上)。
雛祭りに飾る菱餅は、白・赤・緑の三色を用いるが、
地方によっては異なり、2色であったり、5色や7色になっている餅を菱形に切って重ねて作る地域もある。今の形になったのは江戸時代からである、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%B1%E9%A4%85)。
白は普通に搗いた餅を切り、紅はしょうえんじ(生臙脂)か食紅で、緑は草餅の汁で色を染めて搗く。やや柔らかく搗き上げた餅を、菱形に詰めて形状を整え、粉を敷いた板の上で冷まし、餅の間を水で示して三枚か五枚に重ねあわせる。後、庖丁に水をつけ、菱台に合うように、その周りを立ち落とす、
とある(たべもの語源辞典)。「生臙脂」(しょうえんじ)は、江戸時代に中国から渡来した鮮やかな紅色の染料である。
菱形にした餅、
ということで、「菱餅」となづけられた(仝上)。餅は、
白色の他、青・紅・黄や、もちぐさなどで色づけする、
という(仝上)。なお、御供餅の上に重ねる際は、餅の周囲を切り落とさない、という(仝上)。
赤い餅は、
先祖を尊び、厄を祓い、解毒作用がある山梔子の実で赤味を付けて健康を祝うためであり、桃の花を表している、
白い餅は、
この白い色が清浄を表し、残雪を模している。また、菱の実を入れて血圧低下の効果を得るという意味もある、
緑の草餅は、
初めは母子草(ハハコグサ)の草餅であったが、「母子草をつく」と連想され、代わりに、増血効果がある蓬を使った。春先に芽吹く蓬の新芽によって穢れを祓い、萌える若草を喩えた、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%B1%E9%A4%85)。これを、
赤は「桃の花」を、白は「純白の雪」を、緑は「新緑」を連想させるということで、組み合わせによって「春の情景」を表現しているのです。下から「緑・白・赤」の順番で配置されている菱餅は、雪の下に新芽が芽吹き、梅の花が咲いている情景。下から「白・緑・赤」の順番のときは、雪の中から新芽が吹き出、桃の花が咲いている情景です、
と絵解きし(https://www.tougyoku.com/hina-ningyou/column/hina-matsuri-yurai/hishimochi-yurai/)、
菱形の形は、大地を表す、
という説もある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%B1%E9%A4%85)。
なお、宮中では、菱餅のことを、
オヒシ、
ヒシガチン、
ともいい、
ヒシハナビラを「御焼ガチン」と呼ぶ。餅をオカチンというので、ヒシハナハナビラは焼いた餅である、
とある(たべもの語源辞典)。足利時代の「牛中定例記」によると、
おもてむき御対面過て、内々の御祝まいる。次にあかきもちゐ白きひしのもちをやがてかさねて、ちぎりて、角之折敷にすへ、ちいさき土器にあめを入てそへて、御四方にすハりて参候。此もちゐ御老女うやかれ候、
とある(仝上)。すでにこの時期、菱餅が用いられていた。しかし、雛祭りの雛壇に菱餅を供えるのは、江戸後期になってのことである(仝上)。
菱形については、
宮中で正月に食べられる菱葩餅が起源であるという説、
元は三角形であったが、菱の繁殖力の高さから子孫繁栄を願ったという説、
菱の実を食べて千年長生きしたという仙人にちなんで長寿の願いを込めて菱形にしたという説、
室町時代の足利家には、正月に紅白の菱形の餅を食べる習慣があり、宮中に取り入れられて、草餅と重ねて菱餅になったという説、
等々がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%B1%E9%A4%85)がはっきりしていない。
ただ、「餅」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474462660.html)で触れたように、餅には、
粉餅、
と
搗餅、
があり、粉餅には、
粽(ちまき)、
があり、粽は、
糯米(もちごめ)の粉を湯でこねて笹か真菰で巻いて蒸したもの、
であるが、内裏の粽は、
粳米(うるちまい)を粉にして大きく固め、これを煮て水をのぞいて臼でつき、笹の葉で巻き、また煮てつくった。また粳米を水で何度も洗い、粉にして絹ふるいでふるい、水でこねって少し固めにし、すこしずつ取って平たく固め、蒸籠にならべ、よく蒸し、蒸し上げたらとりあげてよくつき、粽のかたちにまるめて笹の葉などで固くしめて巻いて作った、
とある(日本食生活史)。
はっきり今日の「もち」とわかるのは室町期である。15世紀はじめの「海人藻芥(あまのもくず)」に、
内裏仙洞には一切の食物の異名を付て被召事也、(中略)飯を供御、酒は九献、餅はカチン(家鎮)、
と呼ばれたとある。「カチン」は、
搗飯(からいい)と呼ばれ、搗いた餅、
とみられる(仝上)。
三月三日の草餅、
五月五日の粽、柏餅、
は中世になってからであり、
雑煮、
は江戸時代になってからである。この時代になって、
正月の鏡餅、雑煮餅、
三月上巳の草餅、菱餅、
五月五日の粽、
十月亥の日の亥の子餅、
等々年中行事に欠かせないものになっていく(仝上)のである。
また「草餅」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/477094915.html)で触れたように、
上巳(じょうし)の供とす、
とある(大言海)。
古への、母子餅(ははこもち)の遺なり、
ともある(仝上)。鎌倉時代後期の「夫木抄」(夫木和歌抄 ふぼくわかしょう、夫木抄、夫木和歌集、夫木集とも)に、
花の里、心も知らず、春の野に、はらはら摘める、ははこもちひぞ(和泉式部)、
とある。「ははこもちい(ひ)」は、
母子(這兒)に供ふる餅の義ならむ、
とある(仝上)。「母子(ははこ)」とは、
這兒、
であるが、この流れは「天兒(あまがつ)」から始まる。
「天兒」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/460034293.html)は、
幼児の守りとして身の近くに置き、凶事をこれに移し負わせるのに用いる信仰人形。幼児用の形代として平安時代に貴族の家庭で行われた。『源氏物語』などの諸書には、幼児の御守りや太刀(たち)とともにその身を守るまじない人形の一種として登場する。1686年(貞享3)刊の『雍州府志』によると、30センチメートルほどの丸い竹1本を横にして人形の両手とし、2本を束ねて胴として丁字形のものをつくり、それに白絹(練り絹)でつくった丸い頭をのせる。頭には目鼻口と髪を描く。これに衣装を着せて幼児の枕元に置き、幼児を襲う禍や穢をこれに負わせる。1830年(文政13)刊の『嬉遊笑覧』には子供が3歳になるまで用いたとある。天児を飾ることは室町時代に宮中、宮家などで続いてみられ、江戸時代には民間でも用いられるようになった。また天児と同じ時期に発生した同じような人形に縫いぐるみの這子(ほうこ)があり、江戸時代に入ると天児を男の子、這子を女の子に見立てて対にして雛壇に飾り、嫁入りにはこれを持参する風習も生まれた、
とある(日本大百科全書)。室町時代の「御産之規式」には、
あまがつの事は、はふことも言ひ孺形(じゅぎやう)とも云ふ。是は若子の御傍に置きて、悪事災難を、このあまがつに負はするなり、若子の形代なり、
ともある。つまり、
稚児の身に副へおく、祓いの人形(ひとがた)、
であったものが、後世、
小兒の守として、枕頭に置くものとなり、幼児の形したる人形、
となり、
室町時代には白絹にて綿を包みて作り、江戸時代になると、尺余の竹筒に、白絹にて頭を作りつけ、又、尺余の竹筒を其下に横たへて、両肩とし、白絹の小袖を着す、小袖には、金銀にて、鶴・龜、松、竹、寶盡しなどを画く、
ようになる(大言海)。この「あまがつ」が雛人形につながるのだから、
後世此の餅をひなに供す、
となることになる(広辞苑)。つまり、「菱餅」の由来の一つは、
母子餅、
になる。「ははこもちひ」は、
古へ、米の粉に、ははこぐさ(母子草)の葉を和し、蒸して製したる餅、
で、
又、今のくさもちひ(草団子)、後に艾餅(よもぎもち)の草餅となる、
とある(大言海)。『三代実録』の嘉祥二年(849)三月三日の条に、母子草を、
蒸しつきて糕(もち)とす、
とある(たべもの語源辞典)。中国では、
鼠麹草(そきくそう)、
を用いていた。「ははこぐさ」の漢名である。そのため、昔は母子草を用いていたが、
室町中期頃から艾(もぐさ)
を用いるようになる。
よもぎ(艾)、
である。「母子草」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/474409213.html)は、春の七草のひとつ、「ごぎょう(御形)」のことである。「母子草」は、
臼と杵を陰陽と考える伝説もあって、母と子を同じ臼に付くことを忌む、
考え方から、母子草を用いることが廃れた、とある(たべもの語源辞典)。
「草餅」の起源は、中国である。
周の幽王が身持ち放埓のため群臣愁苦していたとき、三月上巳曲水の宴に草餅を献上するものがあった。王がその味を賞味して宗廟に献じしめた結果、國大いに治まって太平になったという。後にこれにならって祖霊に進めるようになったのが起源、
とされる(たべもの語源辞典)。荆楚歳時記によると、
6世紀ごろの中国では3月3日にハハコグサの汁と蜜(みつ)を合わせ、それで粉を練ったものを疫病よけに食べる習俗があった、
とされる(世界大百科事典)。これが日本に伝えられた、とみられる。「菱餅」の緑は、草餅に由来する。
これが、どういう経緯で「菱餅」になったかはっきりしないが、菱形になったのは江戸時代初期とされる。当時は、菱の実から作られた白い餅の層と菱の実の餅を蓬で色付けした緑の餅の層の二色、それを3段~5段組み合わせた、とある。三色になったのは明治時代という(https://www.tougyoku.com/hina-ningyou/column/hina-matsuri-yurai/hishimochi-yurai/)。
参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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