「流鏑馬(やぶさめ)」は、「鏑矢(かぶらや)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/479232210.html?1609099233)で触れたように、平安時代〜鎌倉時代に成立する騎射三物(きしゃみつもの)という、騎射により行う、
犬追物、
笠懸、
と並ぶ騎射の一つである。「流鏑馬」は、
鏑流馬、
とも当て、
疾走する馬上から的に鏑矢(かぶらや)を射る、日本の伝統的な騎射の技術・稽古・儀式のことを言う。馬を馳せながら矢を射ることから、「矢馳せ馬(やばせうま)」と呼ばれ、時代が下るにつれて「やぶさめ」と呼ばれるようになったといわれる、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%91%E7%9F%A2)。特に、
馬上で矢継ぎ早に射る練習として、馳せながら的を射る、
とされ、的は、
方板を串に挟んで三ヶ所に立て、白重藤弓に矢三本、一人おのおの三的(みつまと)を射る、
とされる(広辞苑・大言海)。射手は、
水干(あるいは狩衣)、綾藺笠、行縢(むかばき)、籠手を着く、
とある(岩波古語辞典・大言海)。「水干(すいかん)」は、
水張りにして干した布、
の意(有職故実図典)で、
糊を付けず水をつけて張った簡素な生地を用いる、
からであり、晴雨両用に便利なため(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E5%B9%B2、続深窓秘抄)ともいうが、いずれにせよ簡素な服飾である、
ことが由来で、
狩衣に似て盤領(丸えり)の一つ身(背縫いがない)仕立てである。ただし襟は蜻蛉で止めず、襟の背中心にあたる部分と襟の上前の端につけられた紐で結んで止める。胸元と袖には総菊綴(ふさきくとじ)の装飾がある。袖口部分には袖括りがあり、刺し貫いた長部分を「大針」、短部分を「小針」と言い、下に出た余り部分を「露」と称した、
とある(仝上)。因みに、「蜻蛉(とんぼ)」とは、とんぼ結びの意で、トンボが羽を広げた形に結ぶものをさす。
(水干姿 有職故実図典より)
「狩衣(かりぎぬ)」は、
野外遊猟に際して用いた衣(きぬ)、
のためこの名があり、
左右の脇を広げている、
もので(有職故実図典)、狩衣は袴の上に着すのに対して、水干は、袴の中に着籠めて行動の便をはかっている(仝上)。
「重藤の弓」とは、弓は、
木材と竹を組み合わせ、それを膠で接着し、補強のために藤を巻き付けてある。この巻き付け方の形式を重藤と言う。弓の全長は220cm程度で、弦は弓のしなりと反対側に掛ける。滋藤とも書く。重藤の弓の例:全長220cm、幅28mm、厚さ22mm。全体に黒漆塗り、断面はほぼ角で、皮革製の握りは下から85cm、上から135cm にある、
とあり(http://www.xn--u9j370humdba539qcybpym.jp/legacy/yumiya/yumi/index.htm)、「重藤の弓」は、現在だと、
小笠原流では最高格の免許弓です。小笠原流で精進して許しを得なければ使用することができません、
と(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14208319799)、かなり力と技を要する弓のようである。「弓矢」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/450350603.html)については触れた。
「水干」は、
狩衣と源流を等しくし、時に水干狩衣とも呼ばれたが、狩衣が行為の顕官をはじめ、広く有司に使用されて、華麗に形式化されたのに対し、水干はもっぱら一般の庶民に用いられた、
とある(有職故実図典)。「行縢(むかばき)」は、
行騰、
とも当て、
向脛(むかはぎ)にはく意で、
鹿・熊・虎などの毛皮で作り、腰から脚にかけておおいとしたもの、
で、
奈良時代は短甲に用い、平安初期には鷹狩が用い、平安末期から武士が、狩猟・遠行に当たって騎馬の際に着用した、
ものである(広辞苑)。つまり、「流鏑馬」の衣装は、狩りの衣装なのである。狩装束は、
萎烏帽子(なええぼし)をかぶり、その上より藺草で編んだ綾藺笠(あやいがさ)をかぶる。中央は巾子(こじ)といい、髻(もとどり)をいれる為に高くなっている。下には水干(あるいは直垂)を着、射籠手(いごて)を左腕につけるが、手には鞢(ゆがけ 革手袋のこと、流鏑馬では手袋という)をはめ、腰に行縢むかばきという鹿の夏毛革の覆いをつける。足にはくのは物射沓という。腰に太刀、腰刀を佩び、空穂(うつぼ 矢を入れるもの)(流鏑馬の時は箙(えびら))を吊して弓を持つ、
とある(http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000084)。流鏑馬を含む弓馬礼法は、
寛平八年(896年)に宇多天皇が源能有に命じて制定された、
とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%81%E9%8F%91%E9%A6%AC)、
関白藤原忠通によって春日大社若宮の社殿が改築され、保延2年(1136年)3月4日春日に詣で、若宮に社参(中右記・祐賢記)し、9月17日始めて春日若宮おん祭を行ない、大和武士によって今日まで「流鏑馬十騎」が奉納され続けてきた、
とある(仝上)。鎌倉時代には、武士の嗜みとして、また幕府の行事に組み込まれたことも含めて盛んに稽古・実演された、という(仝上)。足軽や鉄砲による集団戦闘の時代である室町時代・安土桃山時代と、時を経るに従い廃れ、現在は、各地神社の神職や氏子または保存会などに受け継がれた流鏑馬が、儀式や祭典として実施されている。
(流鏑馬の射手の狩装束 (『流鏑馬絵巻』) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%81%E9%8F%91%E9%A6%ACより)
「流鏑馬」の語源は、馬を馳せながら矢を射ることから、
ヤハセメ(矢馳馬)の転(大言海)、
ヤバセマ(矢馳馬)の略(貞丈雑記)、
矢伏射馬の義(和訓栞)、
矢馳せ馬(やばせうま)の転訛(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%81%E9%8F%91%E9%A6%AC)、
矢馳馬(やばせめ)」の転訛(https://mag.japaaan.com/archives/95710/2)、
流鏑馬(やばせむま)、馬を駆けさせながら鏑を射る意(http://www.yabusame-fed.jp/yabusame.html)、
等々の語源説がある。
ヤハセメ→ヤブサメ、
ヤバセマ→ヤブサメ、
のいずれかのようだが、
yabaseme→yabusame、
という感じかもしれない。
参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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