2021年01月09日
国民の富
アダム・スミス(大内兵衛・松川七郎訳)『諸国民の富』を読む。
本書は、『国富論』とも呼ばれる、原題は、
An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations
諸国民の富の性質と諸原因に関する一研究、
であり、スミス自身は、
前著、
道徳的感情の理論、
の続編と位置づけ、本書を、
政治経済学、
と同義と考えていた、と本書の編者が見做している。しかし少なくとも、本書の編成からみるなら、
諸国民の富の性質、
を順次分析しており、
国富論、
というよりは、
諸国民の富、
というタイトルが正鵠を射ている。
本書は、まず、
富の増殖の原理を、
第一篇において、富の生産関係の要素として、労働と資財と土地のうち、労働の生産力が決定的であり、それを改善するものが分業であるとし、商品となった生産物が、貨幣によって交換され価格化し、それが賃金、利潤、地代へ分配される流れを、
第二篇で、生産によって蓄積され、再度生産に使われる資財の性質、資本蓄積を、
第三篇で、国別の国民の富裕の進歩の差異を、自然的進歩とは異なり、外国貿易、製造業、農業と転倒された秩序を、
述べ、結論として、資本の活用は、
「自分の資本を国内の勤労の維持に使用するあらゆる個人は、必然的に、その生産物が最大限に多くの価値をもちうるようにこの勤労を方向づけようと努力する。勤労の生産物とは、勤労が使用される対象すなわち原料に付加するものをいう。この生産物の価値の大小に比例して、雇主の利潤もまたそうなるであろう。
ところで、ある人が勤労の維持に資本を使用するのは、ただ利潤のためだけにそうするのであり、したがってかれは、生産物が最大の価値をもちそうな、すなわち、それが貨幣またはその他の財貨のいずれかの最大量と交換されそうな勤労の維持に、それを使用しようとつねに努力するのである。
ところが、あらゆる社会の年々の収入は、つねにその勤労の年々の全生産物の交換価値と正確に等しい、否むしろこの交換価値とまったく同一物なのである。それゆえ、あらゆる個人は、自分の資本を国内の勤労の維持に使用すること、したがってまた、その生産物が最大限に多くの価値をもちうるようにこの勤労を方向付けること、この双方のためにできるだけ努力するのであるから、あらゆる個人は、必然的に、この社会の年々の生産物をできるだけ多くしようと骨おることになるのである。いうまでもなく、通例かれは、公共の利益を促進しようと意図もしていないし、自分がそれをどれだけ促進しつつあるのかを知ってもいない。……また、その生産物が最大の価値をもちうるようなしかたでこの勤労を方向づけることによって、かれはただ自分の利得だけを意図するにすぎぬのであるが、しかもかれは、このばあいでも、他の多くのばあいと同じように、見えない手に導かれ、自分が全然意図してもみなかった目的を促進するようになるのである。かれがこの目的を全然意図してもみなかったということは、必ずしもつねにその社会にとってこれを意図するよりも悪いことではない。かれは自分の利益を追求することによって、実際に社会の利益を促進しようと意図するばあいよりも、より有効にそれを促進するばあいがしばしばある。」
と述べる。つまり、
「財貨の交換の自由さえ保障されていればいわば人間相互の道徳的感情と彼らの生来もっている利己心とが集まって、自然に労働と資本の生産は拡大する」
という「見えない手」に、本書を『道徳的感情の理論』の続編と位置づけたスミスの意図がみえる。
以後、第四編は、政治経済学の、
商業の体系、
と
農業の体系、
を通して、重商主義と重農主義という経済学を批判する。ある意味で、後年、マルクスがスミスを『経済学批判』したように、スミスの既存の経済学批判である。
そして、最後、第五編は、国家の収入で、軍備、司法、教育、土木その他の公共施設について、国家は何をすべきで、その経費の補填として、租税と公債を論じて終る。
この展開は、
一国民の富は一人当たりの所得によって計算されるべきものだ、
とするスミスの考え方を正確に反映している。だから、本書の序論は、
「あらゆる国民の年々の労働は、その国民が年々に消費するいっさいの生活必需品や使益品を本源的に供給する元本である。これらの必需品や使益品は、つねにこの労働の直接の生産物か、またはこの生産物で他の諸国民から購買されるものかのいずれかである。
それゆえ、この生産物またはそれで購買されるものが、それを消費すべき者の数に対する割合の大小に応じて、その国民は、必要とするいっさいの必需品や使益品を十分にまた不十分に供給されることになる。」
と書き始められる。だから、
国民の福祉は、その成員の福祉の平均によって計算されるべきであって、福祉の総計によるべきではない、
という含意が読み取られる、とやはり本書の編者が見做しているのは首肯できる。
周知にように、マルクスは『資本論』を、
商品と貨幣、
から書き起こしたが、スミスは、本書を、
分業、
から書き起こす。時代の差もあるが、だから、マルクスは、
商品の使用価値と交換価値、
の分解から始めていく。しかし、スミスは、分業から書き始めたことによって、
価値そのもの、
ではなく、
価値を生み出す諸形態、
を横展開していくことになる。だから、
交換価値=価格、
を前提に展開していくように見える。たとえば、
「製造工の労働は、一般に、加工する材料の価値に、自分自身の生活維持費の価値と、自分の親方の利潤の価値とを付加する。」
としか触れない。だから、「価値」の様々な形態は横展開で例示されるが、その価値の生れ出てくる仕組みは、どこかブラックボックスというより自明のように展開されていく気がする。そこに展開される事例の連続は、いささか読んでいて、退屈させられるのを否めない。だが、経済に疎いので、素人のたわ言かもしれないが、マルクスに批判されたスミスは、
死んではいない、
気がしてならない。
資本主義、
は、まだ厳然としてあるし、彼の、
見えざる手論、
も
安価なる政府(チーフガバメント)論、
も、まだ生きている気がする。
参考文献;
アダム・スミス(大内兵衛・松川七郎訳)『諸国民の富』(岩波書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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