「たそがれ」は、
黄昏、
と当てるが、
黄昏時の略、
とある(岩波古語辞典)。
弓張月、
を、
ゆみはり、
と略すのと同列、とある(大言海)。
(黄昏時の神戸港 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%98%8Fより)
「黄昏」(コウコン)は。漢語である。淮南子に、
日至于處淵、是曰黄昏、
とある(字源)。「黄」(漢音コウ、呉音オウ)は、
象形。火矢の形を描いたもの。上は、「廿+火」(=光)の略体。下は、中央にふくらみのある矢の形で、油をしみこませ、火をつけて飛ばす火矢。火矢の黄色い光をあらわす、
とあり(漢字源)、五色(青・黄・赤・白・黒)の一つで、
五方では中央(青:東、赤:南、黄:中央、白:西、黒:北)、五行(青:木、赤:火、黄:土、白:金、黒:水)では土の色に当たる。地上の支配者、皇帝の色。高貴な色とされる、
とある(仝上、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%A1%8C%E6%80%9D%E6%83%B3、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%96%B9%E8%89%B2)。
「昏」(コン)は、
会意兼形声。民は、目を↑型の針でつぶしたさまを示し、目が見えずくらい意を含む。昏は、もと「日+音符民(ミン)」。物が見えないくらい夜のこと。のち、唐の太宗李世民が、自分の名の民を含んでいるために、その字体を「氏+日」に変えさせた、
とある(漢字源)。
和語「たそがれ」は、古くは、
たそかれ、
と清音であった。
薄暗くなって、人の顔が見分けにくい時分、
のことで、
「誰(た)そ、彼は」といぶかる頃の意、
とある(岩波古語辞典)。
元来、
誰彼(たそかれ)と我な問ひそ九月(ながつき)の露に濡れつつ君待つ我を(柿本朝臣人麻呂歌集)、
というように、
アレハダレカ、
と尋ねる言葉であったものから、薄暗くて人の顔の見分けがつかない時分をさす、
たそがれどき、
という語が生じ、
さらに、その、
とき、
が省略された形であると考えられる、とある(日本語源大辞典)。今日の意の「たそがれ」で使われたのは、
光ありと見し夕顔の白露はたそがれ時のそらめなりけり(夕顔)、
寄りてこそそれかとも見めたそかれにほのぼの見ゆる花の夕顔(仝上)、
と、源氏物語にみられる。
「たそ」は、「逢魔が時」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/433587603.html)で触れたことだが、
誰ぞ、
と当て、
タは代名詞、ソは、指定する意の助詞、
とあり、
たそかれと問はば答むすべを無み君が使いを帰しつるかも(万葉集)、
といった使い方をしていた。それが、
誰そ彼→たそかれどき→たそがれ、
と、比喩としてではなく、普通名詞と変じていった、とみられる。
「たそがれ」の対になるのが、暁に言う、
かはたれどき、
である。奈良時代までは、
カハタレトキ、
と清音であった。
彼は誰れの義、
である(大言海)。
暁(あかとき)の加波多例等枳に島蔭(しまかぎ)を漕ぎにし船のたづき知らずも(万葉集)、
とあり、
薄暗くて、人の顔もおぼろにしか見えず、あれは誰と見とがめるような時刻の意、
である(岩波古語辞典)。
「あかつき」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/466141631.html)で触れたように、古代の夜の時間は、
ユウベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、
という区分し、「昼」は、
アサ→ヒル→ユウ、
と区分した。「たそかれ」は、
ユウ、
に、「かはたれ」は、
アカツキ、
に当たることになる。
(鳥山石燕「逢魔時」 『今昔画図続百鬼』より)
参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95