「はは」は、
母、
と当てる。ただ、上代、「母」を、
オモ、
とも訓ませた(岩波古語辞典)。
「母」(慣用ボ、漢音ボウ、呉音ム・モ)は、
象形。乳首をつけた女性を描いたもので、子を産み育てる意味を含む、
とある(漢字源)。
(甲骨文字(殷)「母」 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AF%8Dより)
(女の人がひざまずき乳房を出している姿から「母」へ(書道家 八戸 香太郎氏) http://blog2.kotarohatch.com/?eid=1380984より)
「はは」の意味の漢字には、
「嬢(孃)」(漢音ジョウ、呉音ニョウ)、
があり、
会意兼形声。「女+音符襄(ジョウ 中にこもる、ふんわりとして柔らかい)」で、からだつきの柔らかい女性のこと、はは・むすめの両義に用いる、
とあり(仝上)、
爺嬢(やじょう)、
というと、「ちちはは」の意になる。
妣(ヒ)、
は、
会意兼形声。「女+音符比(ならぶ)」。父と並ぶ人という意味であろう、
とあり(仝上)、死んだ父に対して、
死んだ母の意、
で、
生前には母といい、死後は妣という、
とある(仝上)。
媽(漢音ボ、呉音モ)、
は、
形声。「女+音符馬」。父をパといい母をモまたはマというのは上古の漢語以来の古い称呼である。媽は、俗語の中に保存されたもの、
で、
かあちゃん、
の意(仝上)。
嫗(ウ、慣用オウ)、
は、
会意兼形声。「女+音符區(ク ちいさくかがむ)」。背中の屈んだ老婆、
で、「老いた母」を意味する。
さて、和語「はは」は、
奈良時代はファファ、平安時代にはファワと発音されるようになった。院政期の写本である「元永本古今集」には「はわ」と書いた例がある(広辞苑)、
ファファが平安、中世の発音(日本語源広辞典)、
平安時代以後ハワと発音が変化したが、ロドリゲス大文典などによると、室町時代はハハとする発音もあった(岩波古語辞典)、
等々とあり、「母」を、
はは、
と訓むのは後のことのようである。
は行子音は、語頭では、p→Φ→h、語中ではp→Φ→wと音韻変化したとされる(Φは両唇摩擦音。Fとも書く)。これに従えば、「はは」は、papa→ΦaΦa→Φawa→hawaとなったはずで、実際、ハワの形が中世に広く行われたらしい。仮名では「はは」と書かれたものの読み方がハハなのかハワなのかは確かめようがないが、すでに12世紀の初頭から「はわ」と書かれた例が散見されるから、川のことを「かは」と書いてカワと訓むごとく、「はは」と書いてハワと読むことも少なくなかったと考えられる。キリシタン資料を見ると、「日葡辞書」では「Fafa」と「faua」の両形が見出しにあるが、「天草本平家」などにおける実際の用例ではハワの方が圧倒的に多い、
とある(日本語源大辞典)。したがって、「はは」は、「母」と表記しても、
ファファ(奈良時代)→ファワ(平安時代)→ハハ(「ハハ」と表記してハワと読む。室町時代)→ハハ(江戸時代以降、ハハ)、
と読んでいったという経緯になる。なお、国際音声記号で、
[ɸ]は無声両唇摩擦音を、[ø]は円唇前舌半狭母音を表す、
とされている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%CE%A)。無声両唇摩擦音(むせいりょうしんまさつおん)は、
子音のひとつである。両唇で調音される摩擦音で、ロウソクの火を吹いて消したり、粥を吹いて冷ます時に発生する音、
とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E5%A3%B0%E4%B8%A1%E5%94%87%E6%91%A9%E6%93%A6%E9%9F%B3)、
現代日本語では、ファ行全段とハ行の「フ」をこの音で発音する。これらの文字の子音はローマ字表記においてFで転写されることが主流であるが、多くの日本語話者は外国語などの無声唇歯摩擦音([f])もこの音で発音してしまうことがある。(中略)日本語の歴史上では、平安中期から江戸初期までは、ハ行の全段をこの音で発音していたが、ハ行転呼の現象により両唇接近音[β](下唇と上唇が接近することで作られた隙間から生じる音)、すなわちワ行の音に変化した、
とある(仝上)。「こんにちは」を、「こんにちわ」と発音するのがそれだろう。その意味で、和名抄に、
母、波波、
字鏡に、
母、波波、
は、「はは」と訓ませたとは限らないことになる。
おもしろいことに、どの呼び方にせよ、「おやじ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/480008165.html?1613160043)、「おふくろ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/480023558.html?1613246072)で触れた「かか」「とと」と同じように、「はは」も、
乳首を求める乳児の甘え声が語源(日本語源広辞典)、
愛(は)しの首言の身を重ねて云へるにて、小児語に起これるならむ(大言海)、
子供が発音しやすく偶然発した音声ファアから(国語溯原=大矢徹)、
等々、幼児語由来とする説がある(日本語源大辞典)。
室町末期(17世紀初頭)までは、「母」は、「ハワ」が優勢だったが、それが、表記、発音とも「ハワ」が滅び、「ハハ」になっていったのだが、その理由として、
①他の親族名称、チチ・ヂヂ・ババ……は、二音節語、同音反復、清濁のペアをなす、といった特徴があるから、ババから期待される形はハハと類推されるから、
②江戸時代には、口頭語で母を……、カカ(サマ)・オッカサンなどが次第に一般的となり、「はは」は子供がちいさいとき耳で覚える語ではなく、大人になって習得する語になっていった、
③江戸時代でも、仮名表記する際には「はは」が一般的であり、この表記の影響による、
等々があるとする(仝上)。表記と読みが違うのは、
てふてふ、
を、「ちょうちょう」と読ませることなど多々ある。「ちち」「はは」と連呼したとき、「チチ」「ハワ」は、言いにくいということが大きいのではあるまいか。
こうみると、「はは」の語源は、
子をハラム(孕)ところから(本朝辞源=宇田甘冥・日本語源=賀茂百樹)、
ハゴクムの義(仙覚抄)、
ハはヒラフシ(日足)の転ヒタラサの約(和訓集説)、
ハラ(腹)の義(言元梯)、
胞衣の意のフフム(含)から(名語記)、
母の意の古語イロハのハを重ねたもの(国語蟹心鈔)、
はいずれも、語呂合わせに近い。ただ、「いろは」との関連については、
母をイロハと云ふときは、ハの一音に云へり(大言海)、
というのもあり気になるが、「母」の意の「いろは」は、名義抄にも、
母、イロハ、俗云、ハハ、
とあり、
イロは、本来同母、同腹を指す語であったが、後に単に母の意と見られて、ハハ(母)のハと複合してイロハとつかわれたものであろう、
とあり(岩波古語辞典)、
伊呂(イロ)兄(え)、
伊呂兄(せ)、
伊呂姉(せ)、
伊呂弟(ど)、
等々、同腹の兄弟姉妹を云ひし(大言海)とある。どうやら、由来が先後逆である。
「はは」と同義の「おも」については、項を改める。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95