毛利敏彦『江藤新平―急進的改革者の悲劇』を読む。
佐賀藩主鍋島直正に、
江藤は働き者にて、副島は学者なり、
評された江藤新平は、慶応三年(1867)東征大都督軍監に任命されてから、佐賀の乱に巻き込まれて処刑された明治七年(1874)の僅か七年ばかりの間に、疾風怒涛のように、明治政権の屋台骨づくりに奔走して、果てた。僅か四一歳の生涯であった。
著者は、こう評する。
明治維新は、徹底的民主主義者の江藤新平を立役者のひとりに加えたことで、一際光彩を放ったといえよう。西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允はじめ明治維新で活躍した人物は多い。かれらは、それぞれに大きな役割を果たしたが、それにもかかわらず代役を想定することは困難ではない。かれらが居なければ、誰かが多かれ少なかれ代わりを勤めたであろうことは推測可能である。ところが、江藤にだけはふさわしい代役が見当たらない。明治政府の草創期にもし江藤が不在であったなら、はたして人間の解放と人権の定立が現実ほどに前進したであろうか。多分に疑問が残る。明治維新の現場に江藤が居合わせたのはひとつの奇蹟だったのかもしれない。
明治三年(1870)、岩倉の求めに応じてまとめた、国政基本方針に関する答申書がある。そこで、
日本の建国の体、
は、
君主独截、
とし、こう付け加える。
独裁といえども合して不分は万機混雑して凡百のこと弘張せざるの思いあり、
として、統治権の一ヵ所への集中は弊害を生むと指摘し、
制法(立法)・政令(行政)・司法の三体、
要は、
三権分立を、
治国の要、
とする見解を示し、政体案と官制を提示した。そこには、上下議院制度までも構想し、
上議員が貴族院であるのに対し、下議院はひろく士族・平民から選出された議員からなる一種の民選議院、
とし、議院を設けなければならない理由を、
「天下の法」というものは天皇(政府)といえども恣意的に決めるべきではなく衆議を尽くさなければならないからであると説き、下議院についても、「天下の貨幣と転訛の債」の決定において天皇(政府)の独断は許されず民意に基づかなければならないからだ、
と説明した。
(江藤の政治制度構想 本書より)
さらには、民法典の編纂にも取り組み、
フランス民法を手本にして新日本の民法をつくろう、
と決意した。江藤は、
フランス民法と書いてあるのを日本民法と書き直せばよい、
誤訳も妨げず、ただ速訳せよ、
というほどフランス民法典を高く評価し、普仏戦争でフランスが大敗し、フランスへの評価が日本で低くなるのを戒めた漢詩を残している。
廟堂用善無漢蕃 廟堂善を用いるに漢蕃無し
孛国勢振仏国蹲 孛国(プロシャ)勢い振るい仏国蹲る
仏国雖蹲其法美 仏国蹲ると雖も其の法は美なり
哲人不惑敗成痕 哲人惑わず敗成の痕、
さらには、司法卿に転ずると、司法制度の確立を図り、
司法行政と裁判とを明確に分離、
し、
司法省は官の司直ではなく、「民の司直」であり、「人民ノ権利ヲ保護」することが最大の職責、
とし、裁判制度の確立をはかっていく。
しかし、佐賀の乱に際しては、彼自身の作った、単独で死刑判決はできない「司法職務規定」を無視して、梟首の刑を申し渡され、その日の夕方に嘉瀬刑場において処刑された。これらはすべて法律を無視した(大久保による)私刑であった。さすがに、福沢諭吉は、
公然裁判もなく、其の場所に於いて、刑に處したるは、之を刑と云うべからず、其の実は戦場にて討ち取りたるものの如し、
と痛烈に批判した。皮肉なことに、司法卿として司法制度確立の陣頭指揮を執った時、江藤は、裁判において特に留意すべき点として、
事務敏捷、
と
冤枉(冤罪)、
の二点を戒めていた。迅速さの代償として、
冤枉、
に自らが陥れられるとは思ってもみなかったろう。裁判長は、司法卿時代の部下、
河野敏鎌、
であった。裁判は形式的であり、
先ず結論ありき、
で、
判決案(擬律)、
は決まっていた。司法制度の確立に精魂を傾けていた江藤には心外の極みだったに違いない、
暗黒裁判、
であった。著者は、掉尾、
明治維新の精神における最良質部分の惜しみて余りある終焉だった、
と締めくくる。
参考文献;
毛利敏彦『江藤新平―急進的改革者の悲劇』(中公新書)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95