2021年03月16日

修身斉家治国平天下


金谷治訳注『大学・中庸』を読む。

大学・中庸.jpg


『大学・中庸』については、「架空問答(中斎・静区)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/475470344.htmlでも触れたことがあるが、『大学』『中庸』は、『論語』『孟子』と合わせて、「四書」と呼ばれ、儒教の教典として扱われてきた。『大学』は、

孔子の門人曾子、

『中庸』は、

曾子の門人子思、

が著したとされ、孟子は、

子思の門人に学んだ、

とされる。で、孔子から孟子までのつながりの中、

四書を学ぶことによって儒教の正統的な血脈がそのまま体得できる、

とされてきた(「はしがき」)。朱子学以降のことである。しかし朱子の体系化に反して、

『大学』と『中庸』は、もともと『論語』や『孟子』と並ぶ単行本ではなかった。「五経」(『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』)のなかの一つとして伝わってきた『礼記(らいき)』四十九編のなかに編入された二編であって、その作者や時代も明確ではない。朱子が大学篇を曾子に関係づけたのは、なんの根拠もない武断であった。そして、中庸篇の方は、『礼記』のなかでそれにつづく三編とともに『子思子』から採用されたという記録が伝わるが、その内容は孔子の孫の子思の時代のものとはとても思えないものがある。

とされ(仝上)、いわば朱子に権威づけられて「四書」に食い込んだものだが、

儒学の精髄をわかりやすく巧みにまとめて、

儒学を代表する古典になっている、とされる(仝上)。

たしかに、

修身斉家治国平天下、

は代表的なフレーズで、

古えの明徳を天下に明らかにせんと欲する者は先ずその国を治む。その国を治めんと欲する者は先ずその家を斉(ととの)う。その家を斉えんと欲する者はまずその身を脩(おさ)む。その身を脩めんと欲する者はまずその心を正す。その心を正さんと欲する者は先ずその意を誠にす。その意を誠にせんと欲する者は先ずその知を致(きわ)む。知を致むる者は物に格(いた)るに在り。物格りて后(のち)知至(きわ)まる。知至りて后意誠なり。意誠にして后心正し。心正しくして后身脩まる。身脩まりて后家斉う。家斉いて后国治まる。国治まりて后天下平らかなり。

である。これは、『孟子』の、

天下の本は国にあり、国の本は家にあり、家の本は身にある、

を、

修身→誠身→正身→正心→誠意→致知→格物、

と深化させている、ということらしい。しかし、普通に考えると、

個人→家→国家、

は、地続きではなく、吉本隆明ではないが、国家は、

共同幻想、

家は、

対幻想、

というように、本来、次元の異なるもののはずだ。それを、擬制的に、

家と国を地続き、

としているのは、中国という国のありようと関わる。ヘーゲルが、「法哲学」で、それを、

家父長制的原理、

といい、

一人の専制君主が頂点に位し、階統制(ヒエラルヒー)の多くの階序を通じて、組織的構成をもった政府を指導している。そこでは宗教関係や家事に至るまでが国法によって定められている。個人は徳的には無我にひとしい、

と指摘し、

家族関係の上に築かれている国家、訓戒としつけによって全体を秩序づけている国家、

とした(日本政治思想史研究)。丸山眞男は、それを受けて、

家父長の絶対的権威の下に統率された閉鎖的な家族社会があらゆる社会関係の単位となり、国家秩序もまたその地盤の上に階序的に構成され、その頂点に「父としての配慮」をもった専制君主が位する。かうした社会構成はシナ帝国においては非常に鞏固であるため、その内部において主体(個体)が己れの権利に到達せず、対立を自己のうちに孕まない直接的統一にとどまり従ってそれは「持続の帝国」でありうる、

と分析する(仝上)が、それは、漢の武帝の時、官学としての地位を占め確立された儒学の、

子の父に対する服従をあらゆる人倫の基本に置き、君臣・夫婦・長幼(兄弟)といふ様な特殊な人間関係を父子と類比において上下尊卑の間柄において結合せしめている厳重なる「別」を説く、

儒教思想は、

「帝国の父としての配慮と、道徳的な家族圏を脱しえず従つて何らかの独立的・市民的自由を獲得し得ない子供としての臣下の精神と」によって構成された壮麗なる漢の帝国に最もふさわしい思想体系、

であり(仝上)、それ以降の、清に到るまでの全中国王朝の国家的権威を保証するものであった(仝上)、と。

その意味で、一見個人の心掛けに見えるものは、君主としての、あるいは臣としてのそれでしかない。たとえば、

心焉(ここ)に在らざれば、視れども見えず、聴けども聞こえず、食らえどもその味を知らず。此れを、身を脩むるはその心を正すに在り、と謂う、

もそうである。しかし、「修身世家治国平天下」は、国を治めるための思想である。それだけに、

小人をして国家を為(おさ)めしむれば、葘害(さいがい)並び至る。善き者(ひと)ありと雖も、亦たこれを如何ともするなきなり、

は痛烈である。わが国は、小人をして治めしめ、既に八年になんなんとする、もはや手遅れかもしれない。

なお、呂新吾『呻吟語』については、[新吾]http://ppnetwork.seesaa.net/article/443822421.htmlで、また『論語』については、「注釈」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479597595.htmlで、『孟子』については「倫理」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479613968.htmlで、それぞれ触れた。

参考文献;
金谷治訳注『大学・中庸』(岩波文庫)
丸山眞男『日本政治思想史研究』(東京大學出版会)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:29| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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