2021年03月19日
切問而近思
朱熹・呂祖謙編(湯浅幸孫訳注)『近思録』を読む。
本書は、朱熹と呂祖謙が、周濂渓、張横渠、程明道、程伊川の著作から編纂し、
その大体に関し、日用に切なるもの、
を採り、四子の入門書としたものであり、朱子学の入門書でもある。
卑近な日常の実践道徳から、高遠な自然存在学に到るまで、四子の梗概はほぼこの書に尽くされている、
といい(編者「まえがき」)、日本では江戸時代後期に各地の儒学塾で講義された。豊後日田の広瀬淡窓の咸宜園では、(王陽明の)『伝習録』とともに学業の最後の段階に位置づけられていた(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%80%9D%E9%8C%B2)、とある。
『近思録』の「近思」は、『論語』子張篇にある、
子夏曰く、博く学びて篤く志(し)り、切に問いて近く思う、仁はその中に在り、
博学而篤志、切問而近思、
の、「切問而近思」からきている。「切」とは、学而篇の、
子貢曰く、貧しくして諂(へつら)うことなく、富みて驕ることなきは如何。子曰く、可なり。未だ貧しくて道を楽しみ、富みて礼を好むものには如かざるなり。子貢曰く、詩に、切するが如く、嗟するが如く、琢するが如く、磨するが如し、と云へるは、それ斯(こ)の謂(いい)か。子曰く、賜(し)や始めて与(とも)に詩を言うべきなり。諸(これ)に往(おう)をつげて來を知るものなり、
とある「切するが如く、嗟するが如く」の「切」で、
珠を磨くように鋭く問いかける、
意とある(貝塚茂樹)。しかし、僕は、衛霊公篇の、
如之何(いかん)、如之何と曰わざる者は、吾如之何ともする末(な)きのみ、
のもつ「問い」の重要性を思い出す。「近く」にとらわれすぎれば、
人にして遠き慮りなければ、必ず近き憂いあり(仝上)、
にもなる。『近思録』では、格物窮理篇で、
問う、如何なるか是れ「近く思う」。曰く、類を盛って推(お)す、
とあり、
類推、
を言っている。類推は、
メタファ、
でもあるが、
分かっていることから、分からないことを類推し、分かるようにする、
という学びの方法論を言っている。道体篇に、
仁至(きわ)めて言い難し、故に止(た)だ曰く、己れ立たんと欲して人を立て、己れ達せんと欲して人を達し、能く近く取りて譬う、
とある。これは、『論語』雍也篇にある、
夫(そ)れ仁者は己れ立たんと欲して人を立たしめ、己れ達せんと欲して人を達せしむ。能く近くを譬える、
を引用したものだが、ここでも、
能近取譬、
と、身近な例を譬えとして挙げている。「近く」の同じ使い方である。教学之道篇にある、
才の高きものをして、亦た敢て近きを易(あなど)らざらしむ、
は、逆に卑近なことを蔑ろにしないようにする意図である。
格物窮理篇には、
学は思に原(もとづ)く、
とある。程伊川の言とされる。
思はその聡明を起発する所以なり、
とある(朱子語録)。『論語』為政篇には、
学びて思わざれば則ち罔(くら)く、思いて学ばざれば則ち殆(うたが)う、
とある。「殆(うたが)う」は、貝塚注によるが、
朱子の新注では、あやうし、不安、ととるが、古注では怠、つまり「つかれる」と読んでいる。王引之にしたがって「疑う」と読んだ、
とある(貝塚茂樹)。しかし、「あやうし」の方が、語感としては合う気がする。『論語』衛霊公篇に、
子曰く、吾嘗て終日食らわず、終夜寐(い)ねず、以て思う。益なし、学ぶに如かざるなり、
とある。『荀子』勧学篇には、
吾嘗て終日にして思う。須臾の学ぶ所に如かざるなり、
とある。ただ、この時代は、
学ぶとは、つまり先王や書物について先王の道を習うことである。先王の道は、人間一般のすぐれた経験の結晶である。思う、つまり考えることは個人の理性のなかだけにたよった思索である、
とある(貝塚訳注)。全般に、
子思曰く、學は才を益(ま)す所以なり、礪(といし)は刃を致す所以なり。吾嘗て幽処して深く思うも、學の速やかなるに若(し)かず(『説苑』)、
というように、
古代儒学は、独り思索するよりも、古の聖賢の道を学ぶことを奨めた。思索を重んずるのは。宋代儒学の新傾向である、
という(湯浅訳注)。特に、程伊川は、
「学」とはただ客観的事物を研究することだけではなく、自己の内省によって獲得される、
と考え、
内省の努力を重んじ、「自得」「自ら内感する」「悟」を重視した(仝上)。いわば、
腑に落ちる、
感じを重視したのだと思われる。
凡そ思いを致して説き得ざる処に到りて、始めて復た審思明弁するは、乃ち善く学ぶと為す、
である。より現代感覚に近づいている風であるが、しかし、それは、孔子の、
学びて思わざれば則ち罔(くら)く、思いて学ばざれば則ち殆(うたが)う、
にも十分うかがえる気がする。
治世の処方箋でもあるので、今日、たとえば、
天下の事は、一家の私議に非ず。願わくは公気を平かにして以て聴け(君子処事之方篇)、
官と做(な)れば人の志を奪う(改過及び人心疵病篇)、
天下の事を公にすと雖も、もし私意を用いて之を為さば、便(すなわ)ち是れ私なり(仝上)、
は、痛烈に響く。「做」は「作」の俗字、
作官、
という言葉があり、
官吏となる、
意の俗語である(字源)が、これは、
官吏となること自体を非難したのではなく、出世欲、権力欲のために、道を曲げ、節操を失い、或いは、廉恥や身分的品位を失うような行為をすることを戒めたもの、
とある(湯浅訳注)。まさに今日我が国の官吏に見ている光景である。
これと真反対なのが、「新吾」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/443822421.html)で触れた、
呂新吾、
である。
「吏治、良なきは、いまだ大吏より治まらざるものにあらず」
と、上に立つものの姿勢にあるとして、
「およそ事、皆自ら責め自ら任じ、饋遺贖羨、尽くこれを途絶す」
というほど、おのれの身を律した。
呂新吾『呻吟語』については、[新吾](http://ppnetwork.seesaa.net/article/443822421.html)で触れたが、「論語」については、「注釈」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/479597595.html)で、孟子については「倫理」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/479613968.html)で、「大学・中庸」については、「修身斉家治国平天下」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/480516518.html?1615836541)で、それぞれ触れた。
参考文献;
朱熹・呂祖謙編(湯浅幸孫訳注)『近思録』(タチバナ教養文庫)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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