2021年03月31日

あざむく


「あざむく」は、

欺く、

と当てる(広辞苑)。

布施(ふせ)置きて吾は祈(こ)ひ祷(の)むあざむかず直に率(ゐ)ゆきて天路(あまぢ)知らしめ(万葉集)、

と、

だます、まどわす、

意と、

法師を見れども尊む心なし、若し教へすすむる人あれば、かへつてこれをあざむく(発心集)、

と、

あざける、そしる、

意と、

源氏どもにあざむかれて候はんは、誠に一門の恥辱でも候ふべし(平家物語)、

と、

あなどる、ばかにする、

意とがあり、他に、

近くさぶらひ遠く聞く人、月にあざけり風にあざむくことたえず(後拾遺序)、

と、

(自動詞として)興に乗じて歌などを口ずさむ、

意があり、

雪を欺く御顔をもたげさせ給ひ、
昼を欺くばかりの明るさ(共に「のせ猿草子」)、

と、

……を欺く、

の形で、

……と間違える、……にひけをとらぬ、

の意でも使う(広辞苑)。

これを見ると、

だます、

意と、

あなどる、

意と、

あざける、

意とがまじりあっている。

あなどる、

あざける、

をほぼ同義の範囲とすると、

だます、
意と、
あなどる(あざける)、

意とに分かれる気がする。どうやらこれは語源と関わる。岩波古語辞典は、

アザはアザ(痣)・アザヤカ・アザケルのアザと同根。人の気持ちにかまわずどぎつく現れるものの意。ムクはブク(吹)の転。吹くは、自分の気持のままに、口から出まかせを言う意、

とある。このため、

近くさぶらひ遠く聞く人、月にあざけり風にあざむくことたえず(後拾遺序)、

は、自分の気持ちのままに歌など口ずさむ、

の意にスライドしたと見ることができる。

アザケルやアザワラフのアザと、向くとの複合語(時代別国語大辞典-上代編)、

もほぼ同趣旨である(日本語源大辞典)。このアザは、

あざやか、

に当てる、

鮮、

ではなく、

痣、

である。「あざ(痣)」は、あばた、ほくろ、瘤なども含めており、和名抄には、

痣、師説阿佐(あざ)、

とあり、

瘤、アザ、肉起、

とある(文明本節用集)。

アザアザ・アザワラフ・アザケル・アザムク・アザヤカと同根、

とある(岩波古語辞典)。「あざあざ」は、

鮮々、

と当て、

はっきりしたさま、

である。「あざむく」とは意味が離れてしまう気がするが、「痣」と「あざやか」とは通じなくもない。

いま一つの説は、大言海の、

浅む、

を活用せしめた語、

というものである。

摘むが紡ぐとなる(酒水(さかみづ)く、鬘(かづら)く、枕(ま)く)、あさましく仕向くる意にもあらむか、

とする(大言海)。「浅む」は、

驚む、

とも当て、

あさみ笑ひ、嘲るものどもあり(更級日記)、

と、

人の行動を浅い、情けないと見下げる、軽蔑する、馬鹿にする、

意とともに、

人々見ののしり、あさね、さわぎあひたり(古本説話)

と、

余りの出来事にきれる、びっくりする、

意がある(岩波古語辞典・明解古語辞典)。これは、

浅(アサ)を活用して、アザムと云ふなり、あきれかえるに因りて濁る(淡(あは)む、あばむと云ふと同趣なり)、此語の未然形のアサマを形容詞に活用させて、アサマシと云ふ(勇む、いさまし。傷む、いたまし)。即ちあさましく思ふなり、あざ笑ふなり、

とあり(大言海)、この「あさ」は、

浅、

を当てる。

アサ(浅)の語根と、ムク(向)の複合語(俚言集覧)、
アサムカフ(浅向)の義(名言通)、

も同趣旨である(日本語源大辞典)。いま一つの説は、

アザ(交)ム+ク、つまり真偽をまぜあわせてだます、

と、「あさ」を、

交、

と当てる説である。この「あさ」は、

アザナフ・アザナハリ・アザハリ・アザヘなどのアザ、

で、

あぜ(校)の古形。棒状・線状のものが組み合う意、

である(岩波古語辞典)。しかし、この解釈は、

あざむく、

の「だます」意から逆算したような解釈ではあるまいか。

普通に考えると、

浅む、

から来たと考えたいが、しかし、「あさむ」は、

対象とする事物の属性や事態に処する自分の認識を「浅いとみなす」が原義か、

とあり(日本語源大辞典)、そこから180度意味を変えて、

人の行動を浅い、情けないと見下げる、軽蔑する、馬鹿にする、

意に転じるところまではよしとしても、「あざむく」の、

相手にあれこれと誘い掛け自分の思い通りにさせる、
相手に本当のことだと思わせる、

という(仝上)、

単なる自分の認識の意から働きかける意へ、

という飛躍があり、乖離がありすぎる。しかも「あさむ」は、

上代には適例がなく、「あざける」などからの類推で、江戸時代以降「あざむ」と言われた。しかし「あざむ」は、中世以前には確認できない、

とある(仝上)。つまり、

あさむ→あざむ→あざむく、

と転訛したとするには、万葉集にすでにみられる「あざむく」の由来の説明にはならない、ということなのである。

そこで、改めて、「あざむく」の「あざ」と同根とされる「あざける」をみると、

好き勝手な言葉を口にする、あたりかまわず勝手な口をきく、
ことばに出して射手をばかにする、相手を見下して物を言う、

の意だが、「観智院本名義抄」の「嗤・謾・欺」等々には、

あざける、
あざむく、

の二訓が含まれ、「色葉字類抄」には、「嘲・詐・謾・欺」等々も、二訓とある(日本語源大辞典)。前述の後拾遺の序文、

近くさぶらひ遠く聞く人、月にあざけり風にあざむくことたえず、

では、八代集抄本では、

風にあざむく、

となっており、

あざむく、

あざける、

が同義に解されていた(仝上)、とある。となると、「あざむく」の、

見下す気持ち、

と、「あざける」の、

言葉に出して物を言う、

の意味が、「あざむく」で重なることはある。さらに、「あざける」には、

加持を参るに……侍女忽ちに狂ひて哭(な)きあざける。侍女に神つきて走り叫ぶ(今昔)、

というように、

好き勝手な言葉を口にする、
あたりかまわず、勝手な口をきく、

という意味があり、どうやら、「あざむく」の「あざ」は、

痣、

由来であり、

あざやか、
あざける、
あざわらふ、

に共通する「あざ」のようである。「あざむく」は万葉集の時代から使われる言葉だか、「あざける」とどこかの時点で意味が重なったようである。

欺 説文(漢).png

(「欺」説文(漢) https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AC%BAより)


「あざむく」に当てられた「欺」(漢音キ、呉音コ、慣用ギ)は、

会意兼形声。其(キ)は、四角い箕(ミ)を描いた象形文字。旗(四角い旗)や棋(キ 四角い碁盤)などに含まれて、四角くかどばった意を含む。欺は「欠(人が身体をかがめる)+音符其」で、角ばった顔をみせて、相手をへこませること、

とあり(漢字源)、「表面だけしかつめらしく見せておいて、実はごまかす」意である。他に、

形声文字です(其+欠)。「農具:(み)」の象形(「農具:箕・方形をして整っている」の意味だが、ここでは「期(キ)」に通じ(同じ読みを持つ「期」と同じ意味を持つようになって)、「まつ(末)」の意味)と「人が口を開けている」象形から、期待したものが、最終的に得られなくて、あいた口がふさがらない事を意味し、そこから、「あざむく」を意味する「欺」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1524.html

欺 字源.gif

(「欺」成り立ち https://okjiten.jp/kanji1524.htmlより)


似た意味の漢字の使い分けは、

「欺」は、あなどりてだます義、大学「誠意者、毋自欺也」、
「瞞」は、ぱっとしたことを云ひてだます義、「謾」と同じ、
「誑」は、たぶらかすとも訓み、だまして迷わす義、

とある(字源)。「あざむく」に、「欺」の字を当てたのは、的確である。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:あざむく
posted by Toshi at 04:18| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする
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