2021年04月22日
笑止
「笑止」は、
笑止千万、
などと使う。「千万」は、
無礼千万、
後悔千万、
迷惑千万、
等々と、
形容動詞の語幹や性質・状態を表す体言に付いて、その程度がはなはだしいという意を添える、
が、「千万」自体は、
センバンマウシタイコトナレド(日葡辞書)、
のように、
数量の多いこと、
の意や、
千万砕く気の働き(浄瑠璃「生玉心中」)、
のように、
状態のさまざまなさま、
の意(広辞苑)や、
是は千万蒐合 (かけあひ) の軍 (いくさ) にうち負くる事あらば(「太平記」)、
のように、
万が一にも、
の意でも使われた(デジタル大辞泉)。
「笑止千万」は、
甚だ気の毒なこと、
あるいは、
笑うべきこと、
と、
同情
と
ばかばかしい、
と、相手に寄り添う気持ちと突き放す気持ちと、意味に幅がある。
これは、「笑止」自体の意味の幅が大きいことによる。たとえば、
たいへんなこと(弁内侍日記「笑止の候ふ、皇后宮の御方に火の、といふ」)、
困ったこと、苦しいこと、悲しいこと(謡曲・鉢木「あら笑止や候。さらばお帰りを待ち申しそうずるにて候」)、
他に対する気の毒な気持ちをあらわす(天草本・平家「女院、二位殿に憂き目を見せまらせうずるも笑止なれば」)、
気の毒やら、おかしいやらといった気持ちをあらわす(虎明本狂言・柿山伏「やれやれ笑止や、鳶と思うたればそなたか、と云て笑ふ」)、
おかしいこと、滑稽千万(咄・昨日は今日「言語道断、これ程おかしう、笑止なる事はあるまい」)、
恥ずかしく思うこと(浄瑠璃・一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)「ほんにまあわしとした事が、始めての付け合ひになめたらしい、ヲヲー笑止と、袖震ふさへ廓めかし」)、
等々と意味の幅がある(広辞苑・岩波古語辞典)。しかし、どうやら、
相手の状態に対する、
(「たいへん」という)状態表現から、その状態への、
(「こまったこと」という事態への)感情表現となり、その、
気の毒、
とか、
おかしい、
という感情自体の価値表現へと転換していく、という流れに見える。多くは、他者に対する表現だが、それが、自分自身に向けられると、「恥ずかしい」のように、
(相手が)気の毒、おかしい→(自分が)気の毒、おかしい→恥ずかしい、
という意味の転換が起きている場合がある。
しかし、多くは、その意味の幅の中に、
笑止なれども、京へ上ってたもれ(天草本狂言六義・若和布)、
というように、「笑止」には、相手に対する、
気の毒、
という気持ちがある。だから、本来、
気の毒やら、おかしいやらといった気持ち、
が、含意としてあるのではないか、と思えてならない。だから、
笑も止まる意か、
とし、
他人の、人笑いとなるを、気の毒と思ふこと、片腹痛きこと、
とするのが(大言海)、的確だと思える。「片腹痛い」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/462187823.html)で触れたように、「片腹痛い」は、
傍ら痛い、
であり、室町末期の『日葡辞典』に、「カタハライタイ」と載り、
傍らにいて心が痛む、
意であり、
気の毒である、
傍で見ていて、嫌な気がする(源氏・桐壷「うへ人、女房などはかたはらいたしと、聞きけり」、「かたはらいたきもの、よくも音弾きとどめぬ琴を、よく調べで、心の限り弾きたてる」)
の意と、
きまりが悪い、
はずかしい(源氏・柏木「かたはらいたうて、御いらへなどをだにえし給はねば」)、
と、ほぼ「笑止」の意味の範囲と重なる。つまり、「笑止」は、
傍ら痛い、
と同じく、人の状態の、
気の毒ながら、おかしい、
という気持ちを言い表している。そう考えると、
「笑止」は当て字、「勝事」の転で、本来普通でないことの意(広辞苑・岩波古語辞典)、
「勝事」からか(デジタル大辞泉)、
「勝事」が語源、すぐれたこと、まれなことの意(日本語源広辞典)、
とするのは如何なものか。
室町以降、笑止と当てられ、笑も止まるほどのこと、困ったこと、気の毒なこと、わらうべきこと、等と意味が変遷した、
とする(日本語源広辞典)のは、十三世紀前期に、
今度の御座に笑止数多(あまた)あり。先法皇の御験者、次に后御産の時御殿の棟より甑(こしき)を転かす事あり(高野本平家)、
と、「笑止」使われており、根拠がない(精選版日本国語大辞典)。むしろ、中世末の易林本節用集(1597)に、
勝事 シャウシ 笑止、
とあることは、これが「笑止」の語源ではなく、中世には、「笑止」がそう解釈されていただけなのではないか。高野本平家では、
今度の御産に勝事あまたあり、
となっており、「勝事」と表記されている(仝上)とされる。これは、
「勝」と「笑」とは本来「ショウ」「セウ」として別音であるが、平安時代末にはその発音上の区別は失われていたと考えられる、
ためである(仝上)。「高野本」は、もとになった、応安四年(1371年)の、
覚一本(http://www6.plala.or.jp/HEIKE-RAISAN/zenshoudan/shohon.html#kakuichi)、
を室町末期に写本した、とされる(http://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DKankoub/Publish_db/1996Moji/04/4401.html)。とすれば、「笑止」は「勝事」という通念ができた室町期による表記なのではないのか、という気がする。もちろん、素人の憶説だが、ただ、
ショウジ(笑事)をショウシ(笑止)というのは強化例である、
との説もある(日本語の語源)。「笑」=「勝」とするのは如何だろうか。
なお、漢字「笑」については「笑」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/402589627.html)で、「わらう」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/449655852.html、http://ppnetwork.seesaa.net/article/418275600.html)については、それぞれ触れた。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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