2021年04月23日
経済運営の理念
ケインズ(間宮陽介訳)『雇用、利子および貨幣の一般理論』を読む。
経済に素人な人間が、いまさらケインズを論評するのは、時代錯誤かもしれない。ただ、マルクス、シュムペーターとの違いから、気づいたことを書いてみたい。
僭越かもしれないが、僕には象徴的に思えるケインズの文章がある。師マーシャルの死後書いた追悼文である。
「経済学の体系書は大きな教育上の価値があるかもしれない。たぶんわれわれは、主要作品として、各世代ごとに一個の体系書を必要とするであろう。けれども経済学的事実の一時的性格や、それだけ切り離された場合の経済学原理の無内容さなどを考えると、経済科学の進歩と日常の有用性とは、先駆者や革新者が体系書をさけてパンフレットやモノグラフのほうを選ぶことを要求するのではないだろうか……。経済学に対するジェボンズの貢献のことごとくが、パンフレットの性質をもつものであった。マルサスは『人口論』を初版のあと体系書に改めたさいに台なしにしてしまった。リカードのもっとも偉大な著作は、その場かぎりのパンフレットとしてものされたのである。ミルはその独特の才能をもって首尾よく体系書を完成させることにより、科学よりもむしろ教授法のために尽くし、終わりは『海と老人』のように、船出しようとする次代のシンドバッドたちの重荷になったのではなかったか。経済学者たちは、四つ折り版の栄誉をひとりアダム・スミスだけに任せなければならず、その日の出来事をつかみとり、パンフレット風にて吹きとばし、つねに時間の相の下にものを書いて、たとえ不朽の名声に達することがあるにしても、それは偶然によるものでなければならない」(『エコノミック・ジャーナル(1924年)』)
確かに、ケインズは、アカデミックな、本書『一般理論』や『貨幣論』はあるが、基本的には、ケインズの経済学は、ケインズ自身が、
「現在の経済体制が全面的に崩壊するのを回避するために」(下巻 190頁)、
というように、
大恐慌が資本主義に与えたショックに対する一つの経済学的処方箋、
であり、同時に、
ロシア革命後の社会主義の台頭に対するアンチテーゼ、
をなすものであり、
世界資本主義の一般的危機の生み出した産物、
であり、その経済的帰結は、
この一般的危機を解決するための処方箋、
としての(宇沢弘文「解題」)、
資本主義経済運営のための処方箋、
であることは確かである。それは、
資本主義経済の運営理念(仝上)、
を示し、戦後60年代までの経済政策の基盤としての役割を果たした。その意味では、ケインズが経済学に期待した役割を自ら遂行した、というべきかもしれない。
しかし、そのままケインズ以後の近代経済学は、計量経済学へと進化していく。それはあくまで、経済運営の最適解を見つけるための経済学、というケインズの路線を引き継いでいる、としか言えない。ケインズ自身も、数式で表現することも少なくないが、「経済分析を記号を用いて組織的に形式化する疑似数学的方法」のもつ欠陥を、
「それらが関連する要因相互の完全な独立性をはっきりと仮定し、この仮定がないとこれらの方法のもつ説得力と権威とがすべて損なわれてしまうところにある。これに対して、機械的操作を行うのではなく、いついかなるときにも自分は何をやっているのか、その言葉は何を意味しているのかを心得ている日常言語においては、留保、修正、調整の余地を、後々その必要が生じたときのために『頭の片隅』に残しておくことができる。しかるに、込み入った偏微分を、その値がすべてゼロとされている代数の幾ページかの『紙背』に残しておくことは不可能である。最近の『数理』経済学の大半は、それらが依拠する、出発点におかれた諸仮定と同様、単なる絵空事にすぎ」ない(下巻 63~4頁)、
「(貨幣数量説の一般化された形式の)これらの操作にはいかなる変数を独立変数にするかについて日常言語と同じくらい多くの仮定が含まれている(偏微分は終始無視されている)が、それにもかかわらずこのような操作が日常言語以上にわれわれの思考を前進させるものか、疑問である。」(仝上 75頁)
等々と批判している。その是非は判断できないが、数式化は、ある種抽象化であり、それは、現実を丸める操作である。その次元においては妥当でも、丸められた、コンマいくつかのわずかな誤差が、
バタフライ効果、
を生むことはあり得る。エドワード・ローレンツの、
「蝶がはばたく程度の非常に小さな撹乱でも遠くの場所の気象に影響を与えるか?」という問い掛けと、もしそれが正しければ、観測誤差を無くすことができない限り、正確な長期予測は根本的に困難になる、
という数値予報に関わる言葉は、生きている気がする。
ケインズは、本書の、「結語的覚書」で、
「われわれが生活している経済社会の際立った欠陥は、それが完全雇用を与えることができないこと、そして富と所得の分配が恣意的で不公平なことである。」(下巻178頁)
と書き、本書で論じた理論は、
第一のものと関係している、
とし、この理論は、第二のものとも、
「資本の成長は個人の貯蓄動機の強さに依存しており、しかもこの資本成長のかなりの部分については、富者のあり余る所得からの貯蓄に依存しているという信念」(下巻178、9頁)
を修正を迫るものとして、本書の、
利子率理論、
を挙げ、
「われわれの示したところによれば、有効な貯蓄の大きさは必ず投資の規模によって決定され、その投資の規模は、完全雇用点以上に投資を刺激しようとするのでないかぎり、低利子率によって促進される。だとしたら、利子率を、資本の限界効率表の完全雇用点まで引き下げるのがいちばんの利益だということになる。」(下巻182頁)
そして、
「消費性向と投資誘因とを相互調整するという仕事にともなう政府機能の拡大は、19世紀の政治評論家やアメリカの金融家の目には、個人主義への恐るべき侵害だと映るかもしれないが、私はむしろそれを擁護する。現在の経済体制が全面的に崩壊するのを回避するためには実際にとりうる手段はそれしかないからであり、同時にそれは個人の創意工夫がうまく機能するためのじょうけんでもあるからだ。」((下巻190頁))
と、
管理型資本主義(訳者)、
の方向を示した。確かに、「完全雇用」は60年代で実現された。しかし、ここでは留意されただけの課題、
富と所得の分配が恣意的で不公平なこと、
は、以降、近代経済学では、解決されるどころが、今日、
世界の最富裕層1%の保有資産、残る99%の総資産額を上回る、
とか、
世界の「所得格差」、世界の最富裕層2153人は最貧困層46億人よりも多くの富を持つ、
等々という、各国内でも、世界レベルでも格差が拡大し続けている。つまり、それは、マルクスが試みたように、
資本主義経済、
そのものを批判的に分析し、その枠組みそのものを検討対象とせず、
数学的モデルを構築し、その分析に重点を置き、モデルの妥当性の検証、
にウエイトを置いた結果といっていい。対象そのものの上に乗っかかった学問は、対象を超えることはできない。マルクス、シュムペーターで止まった、経済学全体のつけである。
ところで、面白いことに、マルクスが『「経済学批判」序説』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/479551754.html)で、「経済学の方法」について、
「われわれがある一国を経済学的に考察するとすれば、その人口、人口の各階級や都市や農村や海辺への分布、各種の生産部門、輸出入、毎年の生産と消費、商品価格等々からはじめる。
現実的で具体的なもの、すなわち、現実的な前提からはじめること、したがって例えば経済学においては、全社会の生産行為の基礎であって主体である人口からはじめることが、正しいことのように見える。だが、少し詳しく考察すると、これは誤りであることが分る。人口は、もし私が、例えば人口をつくり上げている諸階級を除いてしまったら、抽象である。これらの階級はまた、もし私がこれらの階級の土台をなしている成素、例えば賃金労働、資本等々を識らないとすれば、空虚な言葉である。これらの成素は、交換、分業、価値等々を予定する。例えば、資本は賃労働なくしては無である。価値、貨幣、価格等々なくしては無である。したがって私が人口からはじめるとすれば、このことは、全体の混沌たる観念となるだろう。そしてより詳細に規定して行くことによって、私は分析的に次第により単純な概念に達するだろう。観念としてもっている具体的なものから、次第に希薄な抽象的なものに向かって進み、最後に私は最も単純な諸規定に達するだろう。さてここから、旅はふたたび逆につづけられて、ついに私はまた人口に達するであろう。しかし、こんどは全体の混沌たる観念におけるものとしてではなく、多くの規定と関係の豊かな全体性としての人口に達するのである。」
そして、後者の方法こそが「科学的に正しい方法」であるとし、
「具体的なものが具体的なのは、それが多くの規定の綜合、したがって多様なるものの統一であるからである。したがって、思惟においては、具体的なものは、綜合の過程として、結果として現れるものであって、出発点としてではない。言うまでもなく、具体的なものは、現実の出発点であり、したがってまた考察と観念の出発点であるのだが」
と書いていたことと、ケインズが、似たことを書いている。
「われわれの分析の目的は間違いのない答えを出す機械ないし機械的操作方法を提供することではなく、特定の問題を考え抜くための組織的、系統的な方法を獲得することである。そして、複雑化要因を一つ一つ孤立させることによって暫定的な結論に到達したら、こんどはふたたびおのれに返って考えをめぐらし、それら要因間の相互作用をよくよく考えてみなければならない。これが経済学的思考というものである」(下巻 63~4頁)
その目的は異にするが、経済学的方法は一つ、ということだろうか。
『諸国民の富』(アダム・スミス)については「国民の富」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/479434441.html)、『資本論』(カール・マルクス)については、『サグラダファミリア』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/480630223.html)、『宇沢弘文の経済学 社会的共通資本の論理』については「社会的共通資本」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/444460857.html)、『経済発展の理論』(シュムペーター)については、「イノベーション」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/480856779.html?1617734814)で、それぞれ触れた。
参考文献;
ケインズ(間宮陽介訳)『雇用、利子および貨幣の一般理論』(岩波文庫)
宮崎義一・伊藤光晴編『ケインズ・ハロッド(世界の名著57)』(中央公論社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください