「そばがき」は、
そばかき、
ともいい、
蕎麦掻、
と当て、
蕎麦練り、
蕎麦掻餅、
そばがゆ、
蕎麦の粥、
等々とも呼ばれる(たべもの語源辞典)。
そば粉を熱湯でこねて、餅状にもの、
である(広辞苑)。「そばがき」は、
蕎麦粉をかいてつくる動作そのものが名称となった、
もので(たべもの語源辞典)、
醤油をつけたり、そばつゆや小豆餡をかけたりして食べる(デジタル大辞泉)。秀吉は夜食に「蕎麦掻」を好んだ、という(たべもの語源辞典)。
(そばがき デジタル大辞泉より)
縄文土器から蕎麦料理を食べていた形跡が発見されており、日本では古くから蕎麦が食べられていた。蕎麦がきは鎌倉時代には存在し、石臼の普及とともに広がったと見られ、江戸時代半ばまでは蕎麦がきとして蕎麦料理を食べられていた、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%8E%E9%BA%A6%E3%81%8C%E3%81%8D)。
「蕎麦切」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/471421916.html)で触れたように、蕎麦は、
蕎麦及ビ大小麦ヲ種樹シ、
と『続日本紀』の「備荒儲蓄の詔」にあるから、古くから食べられたが、
蕎麦粉をこねて団子にして焼餅として食べるとか、やや進んで蕎麦かきとして食べた、
とある(たべもの語源辞典)。江戸時代以降、現在のように細く切られるようになり、当初は、
ソバギリ、
と呼ばれた(語源由来辞典)。その名は、
粉を水でこねて、麺棒で薄くのばして、たたみ、小口から細長く切り、ほぐして熱湯の中に入れてゆで、笊ですくって冷水につける。そして水を切った、
という製法からつけられた。
沸湯に煠(ゆ)でて、冷水にて洗ひ、再び蒸籠にて蒸すを、ムシソバキリと云ふ、
とある(大言海)。現在のような蕎麦が作られるようになったのは、慶長年間(1596~1615)といわれる。
17世紀後半に著された(遠州横須賀藩の関係者が1680年ころに著したと推定されている)農書『百姓伝記(ひゃくしょうでんき)』には、
そば切りは田夫のこしらへ喰うものならず、
とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%8E%E9%BA%A6%E3%81%8C%E3%81%8D)、そば切りを禁止されている農村が少なからずあった。そのような地域で蕎麦がき、そば餅が食べられた(仝上)、とある。そのため、当時食べられた蕎麦がきは、米飯の代わりとして雑穀や根菜を混ぜたり、鍋料理に入れるなど食べごたえのある形に調理された(仝上)、ともある。
因みに、「蕎麦切」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/471421916.html)の発祥地には、
森川許六の編集した『風俗文選』宝永三年(1706)にある「蕎麦切の頌」から信濃の国、本山宿という説、
と
天野信景の『鹽尻』「蕎麦切は甲州よりはじまる。初め天目山へ参詣多かりし時、所民参詣の諸人に食を売るに、米麦の少なかのし故、そばをねりてだご(団子)とせし、其後うどむを学びて今のそば切とはなりしと信濃人のかたりし」から甲州発祥説、
のがある(たべもの語源辞典)。その後、明暦3年(1657)の振袖火事の後、復興のために大量の労働者が江戸に流入し、
煮売り(振売り)、
が急増、夜中に屋台でそばを売り歩く夜そば売りも生まれた(https://www.nichimen.or.jp/know/zatsugaku/28/)、という。「かる口」(貞享)には、
「一杯六文、かけ子なし、むしそば切」
とあり、「鹿の子ばなし」(元禄)には、
「むしそば切、一膳七文」
とあるが、天保・嘉永期(1830~54)になると、
「一椀価十六文、他食を加へたる者は二十四文、三十二文等、也」(守貞謾稿)、
とある(https://www.nichimen.or.jp/know/zatsugaku/28/)。
参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95