「あけぼの」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/442024908.html)で触れたように、古代、夜の時間は、
ユウベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、
という区分をし、昼の時間帯は、
アサ→ヒル→ユウ、
と区分した(岩波古語辞典)。「アサ」は、
夜の対ではなく、
ヨイ(宵)・ユウ(夕)の対になる(仝上、なお「夜」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/442052834.html)については触れた)。
時間帯としては、昼の時間帯の「アサ」は、夜の時間帯の、
アシタ(明日・朝)、
と同じになるが、「アシタ」は、「あした」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/447333561.html)で触れたように、
「夜が明けて」という気持ちが常についている点でアサと相違する。夜が中心であるから、夜中に何か事があっての明けの朝という意に多く使う。従ってアルクアシタ(翌朝)ということが多く、そこから中世以後に、アシタは明日の意味へと変化しはじめた、
とあり(仝上)、
アクルアシタ(明くる朝)→アシタ(翌朝)→アシタ(明日)、
と転化していった(日本語の語源・日本語源広辞典)ので、時間帯は同じだが、
夜が明けた朝、
と、
昼を前にした朝、
とは含意が異なったと思われる。しかし、「アサ」は、
アシタ(明日・朝)の約、
と、「アシタ」由来とみなされる。
〈あが面(オモ)の忘れんシダ(時)は〉(万葉)とあるが、夜明けの時のことをアケシダ(明け時)といった。「ケ」を落としてアシタ(朝)になった。さらにシタ[s(it)a]が縮約されてアサ(朝)になった、
とある(日本語の語源)。
アクルアシタ(明くる朝)→アシタ(翌朝)→アサ(朝)、
と転化したことになる(日本語源広辞典)。「シダ」は、
とき、
の意で、今日、
行きしな、
帰りしな、
と使う「しな」の古語である(岩波古語辞典・大言海)。「しな」については「しな、すがり、すがら」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/420311540.html?1620242194)で触れた。
となると、「あさ」の語源は、「あした」から考える必要があるが、
アは、明(ア)くの語根、明時(あけした)の意(東(アヅマ)も明端(アケヅマ)なるが如し)、アシタ、約(つづま)りて朝(アサ)となる、雅言考、アシタ「明節(アケシタ)の略なり、時節などを、古くシタといふ、
とする説(大言海)で、尽きている気がする。「あか」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/429360431.html)で触れたが、古代日本では、固有の色名としては、
アカ、クロ、シロ、アオ、
があるのみで、それは、
明・暗・顕・漠、
を原義とする(岩波古語辞典)といい、
赤(アカ)は、「明(アケ)」が語源、
であり、「アケ(明)」は、
アカ(赤・明)と同根、
で、
明るくなる、
意である(岩波古語辞典)。
アはアケル(明)のア(言元梯・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子・国語の語根とその分類=大島正健)、
アはアカの約(和訓集説)、
等々も同趣旨と見ていい。「アサ」の「サ」を、
サは接尾語(言元梯・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子・国語の語根とその分類=大島正健)、
サはスサの約(和訓集説)、
等々は、
アクルアシタ(明くる朝)→アシタ(翌朝)→アサ(朝)、
の転化を考えると、意味のない穿鑿に見える。
なお、
ユウベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、
でいう、
アカツキ→アシタ、
と、「アサ」や「アシタ」の前の時間帯は、「あさぼらけ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473460440.html)で触れたように、あかつき(http://ppnetwork.seesaa.net/article/466141631.html)、以外にも、
ありあけ、
しののめ、
あさまだき(http://ppnetwork.seesaa.net/article/442024908.html?1474144774)、
あけぼの(http://ppnetwork.seesaa.net/article/444607999.html)、
あさぼらけ(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473460440.html)、
等々あり、この違いには微妙な区分がある。
「あかつき」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/466141631.html)は、上代は、
あかとき(明時)、
で、中古以後、
あかつき、
となり、今日に至っている。もともと、古代の夜の時間を、
ユウベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、
という区分した中の「あかつき」は、
夜が明けようとして、まだ暗いうち、
を指し(岩波古語辞典)、
ヨヒに女の家に通って来て泊まった男が、女の許を離れて自分の家へ帰る刻限。夜の白んでくるころはアケボノという、
とする(仝上)が、
明ける一歩手前の頃をいう「しののめ」、空が薄明るくなる頃をいう「あけぼの」が、中古にできたため、次第にそれらと混同されるようになった、
とある(日本語源大辞典)。
「しののめ」は、
東雲、
と当て、
一説に、「め」は原始的住居の明り取りの役目を果たしていた網代様(あじろよう)の粗い編み目のことで、篠竹を材料として作られた「め」が「篠の目」と呼ばれた。これが明り取りそのものの意となり、転じて夜明けの薄明かり、さらに夜明けそのものの意になったとする、
と注記して、
東の空がわずかに明るくなる頃。明け方、あかつき。あけぼの、
の意で、転じて、
明け方に、東の空にたなびく雲、
の意とある(広辞苑)。また、
万葉集に、「小竹之眼」「細竹目」と表記されて、「偲ぶ」「人には忍び」にかかる、語意未詳の「しののめ」がみられる。これを、篠竹を簾状に編んだものと考え、この編目が明かり取りの用をなしたところから、夜明けの意に転じたと見る説もある、
ともあり(日本語源大辞典)、
篠の目が明かり取りそのものの意となり、転じて夜明けの薄明かり、夜明け、
の意となった(語源由来辞典)、とする見方はあり得る。
「ありあけ」は、
月がまだありながら、夜か明けてくるころ、
だから、かなり幅があるが、
陰暦十五日以後の、特に、二十日以後という限定された時期の夜明けを指すが、かなり幅広い。
「あさまだき」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/442024908.html)は、
マダ(未)・マダシ(未)と同根か、
とあり(岩波古語辞典)、
早くも、時もいたらないのに、
という意味が載る。どうも何かの基準からみて、ということは、夜明けを基点として、まだそこに至らないのに、既にうっすらと明けてきた、という含意のように見受けられる。
朝+マダキ(まだその時期が来ないうちに)(日本語源広辞典)
で、未明を指す、とあるので、極端に言うと、まだ日が昇ってこないうちに、早々と明るくなってきた、というニュアンスであろうか。大言海には、
マダキは、急ぐの意の、マダク(噪急)の連用形、
とあり、「またぐ」は、
俟ち撃つ、待ち取る、などの待ち受くる意の、待つ、の延か、
とあり、
期(とき)をまちわびて急ぐ、
意とあるので、夜明けはまだか、まだか、と待ちわびているのに、朝はまだ来ない、
という意になる。
「あげぼの」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/444607999.html)は、「あけぼの」の「ほの」は「ほのかの」「ほの」と通じ、
ボノはホノカのホノと同根、
とある(岩波古語辞典)。「ほのか」とは、
光・色・音・様子などが、薄っすらとわずかに現れるさま。その背後に大きな、厚い、濃い確かなものの存在が感じられる場合にいう、
とある。また、
「あけ(明)」と「ほの(ぼの)」の語構成。「ほのぼのあけ(仄々明け)」とも言うように、「ほの」は「ほのぼの」「ほのか」などと同源で、夜が明け始め、東の空がほのかに明るんでくる状態が「あけぼの」である。古くは、暁の終わり頃や、朝ぼらけの少し前の時間をいった、
ともある(語源由来辞典)。どうやら、
夜明けの空が明るんできた時。夜がほのぼのと明け始めるころ、
で、「あさぼらけ」と同義とある。
「あさぼらけ」は、
夜がほんのりと明けて、物がほのかに見える状態、
とある(岩波古語辞典)。大言海に、
世の中を何に譬へむ旦開(あさびらき)漕ぎにし舟の跡無きが如(ごと)、
という万葉集の歌の「あさびらき」が、拾遺集で、「朝ぼらけ」としている、とある。ちょうど朝が開く瞬間という意になる。しかし、『日本語の語源』は、
アサノホノアケ(朝仄明け)は、ノア(n[o]a)の縮約でアサホナケになり、「ナ」が子音交替(nr)をとげてアサボラケ(朝朗け)になった。「朝、ほのぼのと明るくなったころ…」の意である。「ボ」が母韻交替をとげて朝開きになった、
と、大言海と真逆である。しかし、時間軸を考えると、
アサビラキ→アサボラケ、
ではないか。
アサビラキ(朝開)の転。アケボノと混じた語(類聚名物考・俚言集覧・大言海)、
アサビラケの転(仙覚抄・日本釈名・柴門和語類集)、
とアサビラケ説に対し、
朝ホロ明けの約(岩波古語辞典)、
朝ホノアケの約(和訓栞)、
と、朝ホロ明け説があるが、これだと、ほぼ「あけぼの」と重なる。
「あけぼの」と並んで(「あさぼらけ」は)夜が明ける時分の視覚的な明るさを表す語である。「あけぼの」が平安時代に散文語で、中世には和歌にも用いられるようになるが、『枕草子』春はあけぼの以降春との結びつきが多いのに対し、「あさぼらけ」は主に和歌に用いられ、秋冬と結びつくことが多い。「あさぼらけ」の方が、「あけぼの」よりやや明るいという説もあるが、判然としない、
とある(日本語源大辞典)。さて、
あさまだき、
ありあけ、
あかつき、
しののめ、
あけぼの、
あさぼらけ、
の順序はどうなるのだろう。
「あさまだき」は、
マダ(未)・マダシ(未)と同根か、
とあり(岩波古語辞典)、
早くも、時もいたらないのに、
という意味が載る。夜明けに至らないのに、既にうっすらと明けてきた、という含意のように見受けられる。だから、
あさまだき→あかつき・ありあけ、
となろうか。「ありあけ」は、
月がまだありながら、夜か明けてくるころ、
だから、かなり幅があるが、「あかつき」も、
夜が明けようとして、まだ暗いうち、
と広く、たとえば、「あけぼの」と比べ、
「曙は明るんできたとき。「暁」は、古くは、まだ暗いううら明け方にかけてのことで、「曙」より時間の幅が広い、
とある(http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1145636881)。とすると、古代の、
アカツキ→アシタ、
の時間幅全体を「あかつき」「ありあけ」とみると、その時間幅を、細かく分けると、
しののめ、
あさまだき、
あけぼの、
あさぼらけ、
の順序が問題になる。「あさぼらけ」には異説はあるが、
夜のほのぼのと明けるころ。夜明け方。「あけぼの」より少し明るくなったころをいうか。」(デジタル大辞泉)、
「あさぼらけ」の方が「あけぼの」よりやや明るいと見る説もあるが判然としない(精選版日本国語大辞典)、
とあるので、
あけぼの→あさぼらけ、
とみると、「しののめ」の位置だけが問題になる。
『日本語の語源』は「しののめ」について、
イヌ(寝ぬ。下二)は、「寝る」の古語である。その名詞形を用いて、寝ている目をイネノメ(寝ねの目)といったのが、イナノメに転音し、寝た眼は朝になると開くことから「明く」にかかる枕詞になった。「イナノメのとばとしての明け行きにけり船出せむ妹」(万葉)。
名詞化したイナノメは歌ことばとしての音調を整えるため、子音[∫]を添加してシナノメになり、母音交替(ao)をとげて、シノノメに変化した。(中略)ちなみに、イネノメ・イナノメ・シノノメの転化には、[e] [a] [o]の母音交替が認められる、
と、「篠竹」説を斥けている。そうみると、「目を開けた」時を指しているとすると、「しののめ」が、
しののめ→あけぼの→あさぼらけ、
なのか、
あけぼの→あさぼらけ→しののめ、
かの区別は難しいが、一応、いずれにしても、人が気づいた後の夜明け時の順序なのだから、
しののめ→あけぼの→あさぼらけ、
を、暫定的な順序としてみる(http://ppnetwork.seesaa.net/article/444607999.html)。しかし、「しののめ」「あけぼの」「あさぼらけ」は、ほとんど時間差はわずかのように思える。
「アサ」に当てた「朝」(チョウ)の字は、
会意→形声。もと「艸+日+水」の会意文字で、草の間から太陽がのぼり、潮がみちてくる時をしめす。のち「幹(はたが上るように日がのぼる)+音符舟」からなる形声文字となり、東方から太陽の抜け出るあさ、
とある(漢字源)。
(「朝」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji152.htmlより)
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95