「とうとう」は、
到頭、
と当て、
とうどう、
とうど、
とも訛る(広辞苑・デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典)。
物事が最終的にそうなるさま、
ついに、
結局、
とどのつまり、
という意味である。
浮世到頭須適性、男兒何必蓋成功(羅隠詩)
とあり、
到頭、
は、
至竟、
畢竟、
到底、
と同義の漢語で、
つまるところ、
とどのつまり、
の意である(大言海・字源)。ちなみに、「到底」は、どちらかというと、わが国では、
到底できない、
到底無理だ、
と、
あとに否定の語を伴って、
どうしても、
いかにしても、
の意で使うことが多いが、これも漢語で、
心如清水、到底潔(呉澄詩)、
と、
底まで到る、
と、
つまるところ、
つまり、
の意である(字源)。で、「到頭」も、
先頭に到る、
意(日本語源広辞典)で、中国由来ということで決着が付きそうなのだが、異説がある。
尋ね尋ねて行き着く意で、トフトフ(問々)の義(松屋筆記)、
辺のきわまで危うくなる意で、ホトリホトリ(辺々)の転のホトホトの訛(俗語考)、
という説がある。しかし漢語がある以上、これは付会なのではないか(日本語源広辞典)。
「到底」と書いて「つまり」「結局」と読ませる、
ように、「到頭」も、
中国からの拝借文字、
なのではないか(https://oshiete.goo.ne.jp/qa/1443071.html)。
「とうとう」は、「ついに」と、
結果が現れることを表す、
意では一致するが、「とうとう」が、
長い時間を要してある結果が生じるという意味合いを持つ、
というのに対し、「ついに」は、
長い時間の後、最終的な時点で新しい何かが実現した、またはしなかった、
という意味合いがある(デジタル大辞泉)とあるが、「とうとう」にも、
とうとう成功を掴んだ、
というように、
期待されながらも実現が危ぶまれていたことが、時が経過して最終的に望んだ通りの事態に至った様子
と同時に、
到頭落第した、
というように、
以前から懸念されていたことが、時が経過して、最終的にその通りの好ましくない自体に至る様子、
の二重の含意がある(https://xn--fsqv94c.jp/toutou.html)のではないか。
類義語に、「結局」があるが、「結局」は、
結は終結、局は碁盤なり、
とあり(大言海)、
囲碁を一局打ち終える、
意からきており(広辞苑)、
ずいぶん頑張ったが、結局成功しなかった、
というように、
いろいろな経過があったが、
という含意がある(デジタル大辞泉)。
(「到」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%88%B0より)
「到頭」の「到」(トウ)は、
会意兼形声。到は「至+音符刂(刀)」。至は、矢が一線に届くさま。刀は、弓なりに反った刀。まっすぐに行き届くのを至といい、弓なりの曲折を経て届くのを到という、
とある(漢字源)。別の解釈に、
形声文字です(至+刂(刀))。「矢が地面に突き刺さった」象形(「至る」の意味)と「刀」の象形(「かたな」の意味だが、ここでは、「召」に通じ(「召」と同じ意味を持つようになって)、「まねく」の意味)から、「(まねかれて)いたる」を意味する「到」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji1108.html)。
(「到」成り立ち https://okjiten.jp/kanji1108.htmlより)
「到」は、至なり、彼より此に到著する意、
とあり(漢字源)、至で通用するので、
至家、
を、
到家、
とも書くが、
知至、
徳至、
には到は用いない(字源)、とある。
「頭」(漢音トウ、呉音ズ)は、
会意兼形声。「頁(あたま)+音符豆(じっとたった高坏)」で、まっすぐたっているあたま。豆は、たかつき(高坏)を描いた象形文字、じっとひとところに立つ意を含む、
とある(漢字源)。
(「頭」 漢字 成り立ち https://okjiten.jp/kanji21.htmlより)
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
この記事へのコメント