2021年05月20日
内戦史
倉本一宏『内戦の日本古代史~邪馬台国から武士の誕生まで』を読む。
サブタイトルにあるように、本書では、
弥生時代から中世成立期にかけて、およそ850年間の、
邪馬台国時代の、倭国の狗奴国・邪馬臺国戦から、ヤマト王権の国内統一戦以降、壬申の乱、蝦夷征討、天慶の乱、前九年・後三年の役、と武士が台頭してくるまで、を追っていく。
同じ著者が手掛けた、日本の対外戦を取り扱った、
『戦争の日本古代史-好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/451581100.html)で触れたように、前近代の日本、及び倭国は、対外戦争の極めて少ない国であった。倭寇や元寇などは別として、
四世紀末から五世紀初頭にかけての対高句麗戦、七世紀後半の白村江の戦い、秀吉の半島侵攻、
のみである。一方、国内戦も、
「実は日本は内戦もきわめて少なく、その規模も中国やヨーロッパ、イスラム社会と比較すると、小さなもの」
であった(「はじめに」)。
「古代最大の内戦であった壬申の乱も、動員された兵力は『日本書紀』が語るような大規模のものではなかったはずであるし、天慶の乱で最後まで平将門に付き従った兵はごくわずか、保元の乱で平清盛が動かした兵は三百名ほどであった(戦闘自体はで死んだ者は一人もいなかったという指摘もある)。」
のであり、
「もちろん、個々の合戦の現場における実態は苛烈なものであり、犠牲になった多くの人」
はいるにしても、海外から見ると、
「日本史の平和さについて感心(かつ感動)している」
と。しかも、特徴的なのは、
「王権そのものに対して戦争をしかけた例は、ほとんどない」
ことである。それは、
「日本に国家というものが成立したとき、中国のような易姓革命を否定して世襲を支配の根拠とした王権を作ったため、王権を倒そうとする勢力もついに登場せず、王権側も易姓革命に対応するための武力を用意していなかった」
ことと、加えて、臣下のものたちも、例えば、長く権力を握った藤原氏も、
「天孫降臨神話で天照大神の孫にあたる瓊瓊杵尊に随伴したとする天児屋命(あめのこやねのみこと)を始祖として設定」
しており、権力を強めても、自ら王権を樹立しようともしなかった。それは、平氏や源氏も、天皇家から分かれた士族であったため、
「王権を武力によって滅ぼして新たな王権を作ることよりも、女(むすめ)を天皇家に入れて所生の皇子を次の天皇に立て、自らは外戚として権力を振るうという、藤原氏と同じ方策をめざした。」
これは。
「古代王権が確立した神話に基づく王権を否定し、新たな支配の根拠を作り上げるよりも」
はるかに簡便で効果的な方法、
であった、と(仝上)。
こんな国内戦が、他国のように、
異民族との殲滅戦、
が起こるはずはない。ために、
「国家側の『追討』も、ほとんどは和平・懐柔路線を主体とした外交交渉が主たるもので、大規模な戦闘はほとんど行われなかった」
とする。国内統一戦の象徴、
日本武尊伝承、
をみても、殆どが、
だまし討ち、
で、こうした物語の造形は、
「地方勢力が完全に武力で倭王権に屈服したわけではないことへの配慮、また実際に武力による征伐ではなく、外交交渉によって倭王権と同盟関係を結んだことの反映ではないかと考えられる。」
と著者は想定する。こうした流れは、「征夷」といわれる、坂上田村麻呂の対蝦夷戦でも同じで、
「ほとんどが軍事力行使をともなわない制圧」
であった、とする。その象徴が、岩手県に伝わる「鬼ごっこ」である。
「それは鬼が縄をもって子どもたちを追いかけ、捕まえると腰を縄で結ぶ。捕まった子どもは鬼の手先となり、一緒に他の子どもを追いかける。そして多数となった鬼の集団が最後の子どもを囲んで捕まえるまで、この遊びはつづくのである。何とその遊びは『ちんじゅふ』と呼ばれていた。最初の鬼こそ、田村麻呂だったのである。」
陸奥按察使・陸奥守兼鎮守将軍である坂上田村麻呂に由来していることは明らかである。
こうした戦いが転機を迎えるのは、源頼義・義家による前九年・後三年の役である。
安倍貞任を滅ぼした厨川柵の戦いで、捕らえた貞任側の藤原経清を、
苦痛を延ばすために鈍刀で少しずつ首を斬る、
とか、安倍一族を滅亡させるのに加勢し、出羽・陸奥を手中に収めた清原武則氏の後継者をめぐる内紛に介入した源義家は、金沢柵の戦いで、兵糧攻めにし、女子供をも皆殺しにし、捕らえた清原武衡を、
兵の道では降人を漢代に扱うのが古今の例、
とする嘆願を無視し、斬首にしたうえ、
戦いの最中、矢倉から、
「頼義は安倍貞任を討ち果たすことができず、名簿を捧げて清原武則に臣従し、貞任を打ち破ることができた。汝(なれ 義家)は相伝の家人でありながら大恩ある主君(家衡)を攻め立てているから、天道の責めを蒙るにちがいない」
と悪口を浴びせた藤原千任を捕らえると、義家は、
「金ばさみで歯を突き破って舌を引き出し、これを切らせた。千任を縛り上げて木の枝に吊り下げ、足を地に着かないほどにして、その足の下に、武衡の首を置いた。千任は力尽き、足を下げて、主人武衡の首を踏んでしまった」
という、「古代国家ではありえない」残虐さ、嗜虐性を示す。これが武家の棟梁といわれる源義家である。
切取強盗武士の習い、
とはよく言ったもので、豊田武『武士団と村落』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/461149238.html)で触れたように、
「在地領主の開発した私領、とくに本領は、『名字地』と呼ばれ、領主の『本宅』が置かれ、『本宅』を安堵された惣領が一族の中核となって、武力をもち、武士団を形成した。中小名主層の中には、領主の郎等となり、領主の一族とともにその戦力を構成した。武士の中に、荘官・官人級の大領主と名主出身の中小領主の二階層が生まれたのも、このころからである。武門の棟梁と呼ばれるような豪族は、荘官や在庁官人の中でもっとも勢を振るったものであった。」
要は、国土を私的により多く簒奪したものが武家の棟梁なのである。その意味で、著者が、いまだに、
尚武の気風、
を貴ぶ意味が分からないと嘆くのには、同感である。
参考文献;
倉本一宏『内戦の日本古代史~邪馬台国から武士の誕生まで』(講談社現代新書)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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