天下の意味
渡邊大門『清須会議~秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』読む。
信長横死後の織田家のありようを決めた「清須会議」で主導権を握った秀吉は、その後、
「(神戸)信孝、(柴田)勝家を葬り去り、小牧・長久手の戦いで(北畠)信雄・徳川家康を屈服させた」
とされる秀吉の天下取りの流れを、一次史料を中心に検証する、というのが本書の意図である。そして、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、四国・九州征伐を経て、奥州仕置までを、本書は取り上げる。
人口に膾炙している俗説を修正しつつ書かれているが、今日、ほぼ知られていることが多い。その中で、
天下、
という意味が、どう変わっていくかが、秀吉の変化とともに面白い。
周知のように、信長は、
天下布武、
の朱印を使ったことが知られているが、今日、この天下は、
日本全国、
の意味ではないことが、明確にされている。天下布武に、
全国統一、
の意味はないのである。この時代における、
天下、
は、
将軍が支配する畿内、
を示し、それが共通認識であった。信長の天下の意味は、
①地理的空間においては、京都を中心とする世界、
②足利義昭や織田信長など、特定の個人を離れた存在、
③大名の直轄する「国」とは区別される、将軍の管轄領域、
④広く注目を集め、「輿論」を形成する公的な場、
に集約される、という。もし信長の「天下布武」が、「全国統一」を意味するなら、その朱印の押された手紙を受け取った大名にしてみれば、宣戦布告の意味になる。そんなことをわざわざするとは考えられない。信長の意識では、
畿内平定、
が一義的にあった、と見られる、という。しかし、いつ、
天下=全国統一、
になったのか。
秀吉の事跡をみていくと、天正十一年(1583)年から大坂城築城工事を始めるが、全国の大名に動員をかけ、一日五万人の人夫が工事に携わった、とされる。後に、家康の天下普請そのものである。このとき、秀吉は、
天下人、
を意識していた、と著者は言う。しかし、まだ、秀吉は、山城を中心とした、
畿内、
を掌握していたにとどまる。「天下」もその範囲である。
そして小牧・長久手の戦いを、越後・上杉、北関東・佐竹との友好関係によって北条を牽制し、
「秀吉は、局地戦での勝敗よりも、信雄・家康包囲網を形成し……包囲網はじわじわとボディブローのように利いて」
結局、
「実質的に悪条件を吞まざるを得なかった信雄・家康連合軍の敗北」
により、秀吉は、
従三位・権大納言に叙任任官、
される。この後、秀吉は、
官位の斡旋、
をし、信雄に、
正三位・権大納言、
を叙位・任官させる。まだ天下は、
畿内に留まる、
ものの、秀吉は、
天下人、
を意識し、天正十三年(1585)に、
関白、
に就任し、
豊臣、
という姓を賜る。この頃、秀吉は、足利将軍が用いた、
御内書(おないしょ)、
という書式を使用するようになる。「御内書」は、
「発給者の意思を示す直状形式の文書で、家臣の添状とセットになる。書止文言は、『也』で終わることが多く、『恐々謹言』のような丁寧なもので結ばれていない。尊大な形式の文書である。受け取った相手は、添状を書いた家臣に返事を送り、秀吉への披露をねがうことになる」
もので、
「御内書で出陣を依頼し、書止文言が『也』で終わる場合は、『出陣しろ、以上』というイメージ」
になり、その立場を優位に置き始め、同時期、文書中に、
「自敬表現を用いるようになる。」
自分に敬語を使うのである。後に家康も、これを真似る。
この時期、真田昌幸と徳川家康が対立、
上田城合戦、
で、徳川側は大敗する。この過程で、昌幸への書状で、秀吉は、
天下に対し事を構えている、
とし、家康討伐の旨を伝える。このとき、
天下=秀吉、
であった。結局家康は屈服し、上洛、臣従することになるが、まだ奥州、九州は臣従していないものの、ほぼ、この時点で、秀吉にとって、天下は、
日本全国、
になっている。これに伴って、全国の大名に、自分の、
「羽柴」氏、
や、下賜された姓、
「豊臣」姓、
を諸大名に与え始めると同時に、
官位による大名の序列化、
を図り、
序列の視覚化、
を行い、
「秀吉一門や有力な大名が一斉に公家成(くげなり)」、
をしていく。秀吉は、
「抽象的な意味での武家社会のトップである征夷大将軍よりも、関白・太政大臣という公家社会の頂点に位置し、公家のシステムを換骨奪胎して創出した、独自の武家官位制」
を作り上げていく。このシステムは、徳川時代にも踏襲される。
天正十六年(1588)に、島津義久に発給した書状に、
天下、
が用いられているが、この時、天下は、
日本全国、
を指す。これを嚆矢として、江戸初期には、
「天下は京都や畿内を意味しなくなり、日本全国を指す」
ようになる。
つまり、「天下」は、実質的な全国制覇に伴って、その範囲が広がり、自分自身を、その意味で、
天下人、
と意識するようになっていく、ということになる。
ちなみに、一般に、今日、
清須会議、
と言われているが、当時の史料には、そういう呼称はなく、その嚆矢は、中村孝也著『日本近世史』(大正六年(1917)刊)とされる。
参考文献;
渡邊大門『清須会議~秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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