2021年05月27日

ジェノサイド


田中克彦『ことばは国家を超える―日本語、ウラル・アルタイ語、ツラン主義』読む。

ことばは国家を超える.jpg


本書は、

「ウラル・アルタイ研究から長い間離れていたことのもうしわけであり、ふたたびその入口にたちもどった今の感慨と心情から書いたもの」

とある(あとがき)ように、日本語の起源をめぐる、

ウラル・アルタイ説、

の歴史を辿り直す。その闊達な文章は読みやすいせいか、ウラル・アルタイ語に関わる系譜についての研究そのものよりも、それにかかわる人たちの人間模様がとりわけ面白かった。

日本語は、

膠着語、

と言われる。それは、

複数を表すのに「タチ、ラ、ドモ」のような語尾、

をつけたり、動詞だと、例えば、「飛ぶ」なら、「tob」という語幹に、

tob anai(飛ばない)、
tob imasu(飛びます)、
tob eba(飛べば)、
tob ô(飛ぼう)、

というように、「くっつけたり、又自由にとりはずしができる」タイプの言語とされる(ドイツの言語学者、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトによって提唱された)。それが、

ウラル・アルタイ語、

に共通する特徴で、日本語が、ウラル・アルタイ語と共通に持つ14の特色というのがある。それは、

・語順に子音が連続することを避ける(だから日本語にはstr-(たとえばストライキ)のように子音が三つも重なって発音されることがない)、
・語頭にr音がこない、
・母音調和が存在する(上代特殊仮名遣いの甲類・乙類の違い)、
・冠詞が存在しない、
・文法的カテゴリーにおける性がない、
・動詞の活用変化の仕方(屈折(たとえば、see―saw―seen)がなく一律に膠着法による、
・(動詞につく)語尾の接辞が多い、
・代名詞の変化(日本語はテニオハの接尾による)、
・(前置詞ではなく)後置詞の存在、
・「モツ」という言葉がなく、(……に~がある)という異なる用法をとる、
・形容詞の奪格(~より)を用いる、
・疑問詞が文のあとにくる、
・接続詞の用例が少ない、
・言葉の順序(「限定詞」+「被限定詞」)及び、「目的格」+「動詞」の語順、

というものである。これをめぐっては、さまざまに論じられてきたが、

インド・ヨーロッパ語、

の祖語を探っていくような、

「『誰も一度も見たことがない祖語』を想像する」

という考え方に、著者は、言語は、

系統的類似よりは、類型的な共通性によってグループを成す、

という立場から、こう指摘している。

「アルタイ語は、たとえばツラン低地からアルタイ山地にかけての広い地域で遊牧民の諸言語が接触し合って、共通の類型的特徴をもつアルタイ諸語として形成されたのかもしれず、またそれがウラル諸語と長期のコンタクトをもったかもしれない。このようにして形成された諸言語を印欧比較言語学で行われたように、単一の祖語から分化したと考え、stoffliche Übereinstimmung(語彙や文法的道具などの実質的な一致〉を求めようとするのは誤った想像であって、止めた方がいいかもしれない。」

言語を、ダーウィンの進化系統樹に準えるのは、そもそもその仮定そのものが検証されなくてはならないのではないか。

ただ、僕は素人ながら、言語は、語彙や音韻や、発音だけではなく、

文章の構造、

あるいは、

語る構造、

を比較すべきだと思う。例えば、国語学者の時枝誠記氏は、日本語では、

桜の花が.gif


における、「た」や「ない」は、「表現される事柄に対する話手の立場の表現」(時枝誠記『日本文法口語篇』)、つまり話者の立場からの表現であることを示す「辞」とし、「桜の花が咲く」の部分を、「表現される事物、事柄の客体的概念的表現」(時枝、前掲書)である「詞」とした。つまり、

「(詞)は、話し手が対象を概念としてとらえて表現した語です。「山」「川」「犬」「走る」などがそれであり、また主観的な感情や意志などであっても、それが話し手の対象として与えられたものであれば「悲しみ」「よろこび」「要求」「懇願」などと表現します。これに対して、(辞)は、話し手のもっている主観的な感情や意志そのものを、客体として扱うことなく直接に表現した語です」(三浦つとむ『日本語はどういう言語か』)。

つまり「辞」において初めて、そこで語られていることと話者との関係が明示されることになる。即ち、

 第一に、辞によって、話者の主体的表現が明示される。語られていることとどういう関係にあるのか、それにどういう感慨をもっているのか、賛成なのか、否定なのか等々。
 第二に、辞によって、語っている場所が示される。目の前にしてなのか、想い出か、どこで語っているのかが示される。それによって、〃いつ〃語っているのかという、語っているものの〃とき〃と同時に、語られているものの〃とき〃も示すことになる。
 さらに第三に重要なことは、辞の〃とき〃にある話者は、詞を語るとき、一旦詞の〃とき〃〃ところ〃に観念的に移動して、それを現前化させ、それを入子として辞によって包みこんでいる、という点である。三浦つとむ氏の的確な指摘によれば、

「われわれは、生活の必要から、直接与えられている対象を問題にするだけでなく、想像によって、直接与えられていない視野のかなたの世界をとりあげたり、過去の世界や未来の世界について考えたりしています。直接与えられている対象に対するわれわれの位置や置かれている立場と同じような状態が、やはりそれらの想像の世界にあっても存在するわけです。観念的に二重化し、あるいは二重化した世界がさらに二重化するといった入子型の世界の中を、われわれは観念的な自己分裂によって分裂した自分になり、現実の自分としては動かなくてもあちらこちらに行ったり帰ったりしているのです。昨日私が「雨がふる」という予測を立てたのに、今朝はふらなかつたとすれば、現在の私は
        予想の否定 過去
雨がふら なくあっ た
 というかたちで、予想が否定されたという過去の事実を回想します。言語に表現すれば簡単な、いくつかの語のつながりのうしろに、実は……三重の世界(昨日予想した雨のふっている〃とき〃と今朝のそれを否定する天候を確認した〃とき〃とそれを語っている〃いま〃=引用者)と、その世界の中へ観念的に行ったり帰ったりする分裂した自分の主体的な動きとがかくれています。」(三浦、前掲書)

 つまり、話者にとって、語っている〃いま〃からみた過去の〃とき〃も、それを語っている瞬間には、その〃とき〃を現前化し、その上で、それを語っている〃いま〃に立ち戻って、否定しているということを意味している。入子になっているのは、語られている事態であると同時に、語っている〃とき〃の中にある語られている〃とき〃に他ならない。つまり、「話し手の認識」(三浦、前掲書)を多層的に示しているのである。

 これを、

「日本語は、話し手の内部に生起するイメージを、次々に繋げていく。そういうイメージは、それが現実のイメージであれ、想像の世界のものであれ、話し手の内部では常に発話の時点で実在感をもっている。話し手が過去の体験を語るときも、このイメージは話し手の内部では発話の時点で蘇っている。」(熊倉千之『日本人の表現力と個性』)

という言い方もできる。

こういう「語られていること」の構造の特色をも、比較しなければ、表面的な類比だけでは、生きた言葉の特徴を比較したことにはならないのではないか。そうした言及は、あまり見られなかったことが、疑問である。

ところで、本書のタイトルは、

ことばは国境を超える、

である。しかし、国家によって、たとえば、中国が、ウイグルや内モンゴルでやっているような、

言語を消滅させる政策、

によって、かつて日本が、アイヌ人に日本語教育を強いて、アイヌ語を絶滅させたように、いま、

言語のジェノサイド、

を行われている。著者は、こう書く。これは、

「ウイグル語やモンゴル語のように非文明語は、―いずれもアルタイ語だ! ―ウイグル人、モンゴル人本人にとっても迷惑な言語だから、なるべく早く、こんな劣った言語はやめて漢語(シナ語)に入れ替えたほうが本人たちのしあわせになるのだという信念があるのかもしれない。「脳の中のことばの入れかえ」―これは200年ほど前のフランス革命時代にフランス人たちが考えたことの再現だ」

とし、1794年の国民公会でバーレルが、

「我々は、政府も、風俗も革命した。さらに言語も革命しよう。連邦主義と迷信は低地ブルトン語を話す。亡命者と共和国への憎悪はドイツ語を話す。反革命はイタリア語を話す。狂信者はバスク語を話す」

と、「おくれたヤバンな民族のことばは誤った思想のタネであり、これをやめさせて文明語に入れ替えれば、その民族にとってもいいことだ」という優越思想の反映である。問題なのは、

「これはチョムスキーの言語観とも食い違っていない。人間はすべて、普遍文法を身につけて生まれているから、どんな言語でもとりかえられる。かれらの身につけたできの悪い母語を、りっぱな文明語と入れ替える」

と、しかも、

「日本にも同様な考えを抱く人は決して少なくないかもしれない。私の言語学はこのような単純な考えを抱く人たちとの思想的なたたかいだ」

と。

「人間の考え方、さらには考える力は言語に依存するのみならず、言語によって限定される」

という、ウィトゲンシュタインは、

「人は持っている言葉で見える世界が違う」

といった、民族の言葉を絶滅させることは、

民族の文化、

の絶滅であり、それは、

民族そのものの、

を、消滅させることである。まさに、いま中国のしていることは、

ジェノサイド、

そのものである。

参考文献;
田中克彦『ことばは国家を超える―日本語、ウラル・アルタイ語、ツラン主義』(ちくま新書)
時枝誠記『国語學原論』(岩波書店)
三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫)
「言葉の構造と情報の構造」http://ppnetwork.c.ooco.jp/prod0924.htm

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:29| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください