2021年05月31日
自由民権・社会主義・民本主義
林茂『近代日本の思想家たち―中江兆民・幸徳秋水・吉野作造』を読む。
本書は、
「近代日本における民主主義の側に立つ政治思想の歴史を、とくに三人の人物をとりあげることによって、あとづけてみたいと考えた」(あとがき)
との意図で書かれている。それは、
「近代日本における思想一般ではない。また、政治思想一般でもない」(仝上)
ものである。取り上げたのは、
中江兆民、
幸徳秋水、
吉野作造、
の三人である。生年は、中江兆民は、
弘化元年(1847)、
幸徳秋水は、
明治四年(1871)、
吉野作造が、
明治十一年(1878)、
であり、吉野作造の生まれたころ、
「中江兆民は自由民権論の先達の一人としてすでに一部の人々に知られていた。幸徳秋水は土佐で少年の日をすごしていた。」
というのが、時代における三者の位置関係になる。
この百五十年の間、
「日本は三たび民主主義思想の先例を受けた。初めには自由民権運動の形で、つぎは大正の民本主義として、さらに太平洋の敗戦後における、「民主化」として」、
と著者は「はじめに」で語る。しかし、列強の脅威の中での開国・維新後の民権運動と、敗戦による「民主化」は、共に外圧の中での、いわば他力によるものだ。唯一、大正の普通選挙運動そのものが、日本で、ただひとつ、
国民自身の手で勝ち取ったもの、
のように僕は思う。その意味で、「普通選挙運動」に至る民主主義思想の流れを見ることは、「与えられた」民主主義が、ほぼ形骸化し、衰弱している今日、とりわけ意味があるように思えてならない。
兆民中江篤介(とくすけ)は、
東洋のルソー、
と呼ばれ、自由民権運動の最大の指導者であった。『三酔人経綸問答』で、こう言っている。
「政治の本旨は、国民の意嚮に循由し、国民の知識に適当し、国民をして安靖の楽を保ちて、福利の利を獲しむるにある。もしにわかに国民の意嚮にしたがわず知識に適しない制度を用いるときは、国民の安靖の楽と福祉の利とは得られない。
専制から立憲に、立憲から民主にと進むのはまさに政治の発展する順序である。専制政治から一足飛びに民主政治に入るというようなことは、けっしてその順序ではない。」
と。著者は、兆民の、
「その胸奥において、理論的には、共和制を支持しつつ、当時の日本の段階において、実現されるべきものはイギリスに類する立憲君主制であるとしていたと見るのがあたるであろう。」
と位置づける。国会開設運動に力を入れ、早くから普通選挙論者であった兆民は、
輿論の代表の場としての国会の地位、
を重視した。
「そうして、政党や議員をその背後から擁護し、声援するものとして、輿論、一般人による輿論の地位を大きく位置づけたのであった。輿論は彼にあっては、『第二の君主』であった。それは『第一の』というのをはばかって言ったものとしか受けとれない。」
やがて、政党政治家に愛想をつかすことになっても、
人民への愛情と輿論の重視信頼、
は変わらなかった。
秋水幸徳傳次郎は、兆民最大の弟子である。秋水の名は、中江兆民から与えられた。秋水は、こう書いている。
「小生は幼年の頃より、最も急進なる、最も過激なる、最も極端なる非軍備主義、非国家主義、無政府主義の書を愛読致候。此書や欧米文書の翻訳には無之、純乎たる我東洋人の著述にして、而して東洋人多数の尊敬措かざる所に候。即ち、老子、荘子の書、釈迦の経典にて候」
と。著者は、社会主義者となった秋水の素地を、
「変革する時代とその中で没落していく階級、自由民権思想とその運動の洗礼、とりわけその理論的指導者の一人であった中江兆民との深い接触、儒教的教養、これがその素地であった。彼はみずから儒教から社会主義に入ったとしたこともある。」
と記す。当初、三申小泉策太郎が言うように、
衆議院議員、
になる志を持ち、犬養毅、谷干城ら政治家とも接触し、議会主義政策を取って、
普通選挙、
実施も主張した。しかし徐々に社会主義にシフト、安倍磯雄らと社会民主党を結成し、『平民新聞』発禁に関連して、編集人として責任を問われ、投獄されるが、それについて、著者は、秋水は、
「『マルクス派の社会主義者』として入獄したが、『過激なる無政府主義者』となった出獄した」
と評する。出獄後、渡米するが、帰国後、「余が思想の変化」と題して、
「普通選挙や議会政策では真個の社会的革命を成遂げることは到底出来ぬ、社会主義の目的を達するには、一に団結せる労働者の直接行動(デレクトアクシヨン)に依る外はない。」
と主張し、
普通選挙による議会制民主主義、
による変革から、
直接行動、
による変革へと舵を切る。だが、三年後、大逆事件に連座して、逮捕され、半年後処刑された。今日、この事件自体が、
国家によるフレームアップ、
ということが明らかにされているが、秋水自身、手紙の中で、無政府主義者の革命運動とは、
「唯来らんとする革命に参加して応分の力を致すべき思想智識を養成し、能力を訓練する総ての運動」
と言っており、著者は、こう述べる。
「直接行動が議会を経ないからといって、それは議会をあてにしないということであって、直接行動なら何でもやるというのではない。」
にもかかわらず、
「検事や予審判事たちは、彼秋水の話に『暴力革命』という名目をつけ、『決死の士』などという言葉を考え出し、『無政府主義の革命は皇室をなくすことである。幸徳の計画は暴力で革命を行ふのである。故に、これにくみしたものは大逆罪を行はうとしたものにちがひない』という三段論法をとった」
と。証拠ではなく、でっちあげた「計画」を、予断で裁いたといっても過言ではない。
吉野作造は、生涯、東京帝国大学教授を辞した後も、講師として大学で教鞭をとり続けた。その業績は、
国内の政治、並びに社会問題、
だけではなく、
明治文化史(『明治文化全集』30巻の刊行に尽力)、
中国問題(清国政府に招かれて北洋法政学堂の共感などを務めた)、
欧米の政局問題(イギリス、ドイツ、フランス等に留学している)、
がある。しかし彼を有名にしたのは、「憲政の本義を説いて其有終の美を済(な)すの途を論ず」をはじめとする一連の論文で、
民本主義、
を説き、「その実現が日本における立憲政治を達成する所以である」ことを主張したことである。それは、
「近代政治にあっては、……いわゆる輿論を実質的に創成するものは少数の哲人であるが、これを形式的に確定するものは民衆である。この点において、近代政治の理想とするところは絶対的民衆主義とは相容れない。一般民衆それ自身がただちにすべての問題の決定者たる能力を完全に備えているとするような説明は、とうてい承認しうるところではない。実際の運用から見ても、今日の民衆はつねに少数専門の指導者を必要とし、いわゆる指導者はまた民衆とふだんの接触を保つことによって、ますます自分の聡明をみがいている。ようするに、民衆は指導者によって教育され、指導者は民衆によって鍛錬される。近代政治の理想は最高最善の政治的価値のできるだけ多くの社会的実現を保障するところにある。その数ある特徴のうち、最もいちじるしいものは民衆の意向を重んずるという点にある。」
とし、その意味で、これを、
民本主義、
と呼んだ。そのための制度として、下院における、
普通選挙の実現、
と、
政党内閣制の樹立、
を主張した。しかし、この民本主義は、
「主権が人民に在ることを否定するものであった。すなわち、リンカーンの『人民・人民による・人民のための政治』という語のうち、『人民の』を認めないものであった。」
中江兆民の「輿論」観と比べても、遥かに後退している観を否めない。にもかかわらず、官憲の圧迫、迫害を受け、憲兵の機関紙では、「デモクラシー」自体も標的にされ、吉野作造も「根を絶やし」とするほど名指しされた。
吉野作造は、『中央公論』を舞台に20年にわたって、政治を論じ続けた。実践家というよりは、思想家・評論家であるが、その主張が、
大正デモクラシー、
を盛り上げ、
普通選挙、
を実現する立役者となった。吉野作造は、晩年、
路行かざれば到らず、事為さざれば成らず、
と言っていたという。
中江兆民―幸徳秋水―吉野作造、
は、こう通読してみれば、辛うじて、かぼそい民主主義の道を通してきた、ということができる。特高、憲兵、軍部、右翼等々の恫喝、脅威にさらされながら、文字通り命がけに。
参考文献;
林茂『近代日本の思想家たち―中江兆民・幸徳秋水・吉野作造』(岩波新書)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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