「鬼門(きもん)」は、
北東(艮=うしとら 丑と寅の間)の方位、
をいう。陰陽道で、鬼が出入りするといって、万事に忌み嫌う方角で、これをメタファに、
あそこは鬼門だ、
などと、
ろくなことがなくて嫌な場所、また、苦手とする相手・事柄、
についても言う(広辞苑)。
鬼門方向の造作、移徒(わたまし 転居)は絶対避けること、これを犯せば禍がたちどころに至る、
と広く世間に言われている(広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』)とある。
この逆が、
裏鬼門(うらきもん)、
で、南西(坤=ひつじさる 未と申の間)を指す。これは、
人門、
という。これに対して、
北西(乾=いぬい 戌と亥の間)、
を、
天門、
東南(巽=たつみ 辰と巳の間)、
を、
風門、
という(広瀬・前掲書)。
比叡山は御所の鬼門に当たるので、多くの宗徒をおいて天下安全をまもらせた(仝上)が、江戸城は、鬼門にあたる方角に神田明神と寛永寺を配置、裏鬼門にあたる方角に増上寺を配置して守らせている(https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/portals/0/edo/tokyo_library/modal/index.html?d=5390)。
一般家庭では、艮(うしとら)の方角に桃の木を植えて、是に注連縄(しめなわ)を引き、清浄にすべき、とつたえている(広瀬・前掲書)が、これは「鬼門」の由来とかかわる。
(御本丸方位絵図 江戸城は、鬼門に神田明神と寛永寺、裏鬼門に増上寺を配置 https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/portals/0/edo/tokyo_library/modal/index.html?d=5390より)
「鬼門」は、「山海経(せんがいきょう)」に、
東海の度朔山という所に三千里にわたって枝を張る大きな桃の木があって、東北に当たる所で繁った枝が少し切れて、多数の鬼がここから出入りしたので、これを鬼門といった。天帝が神荼(しんた)と欝塁(うつるい)という二神を遣わして鬼門に出入りする鬼を監視させた。そこで二神は出入りする鬼をとらえて、これを虎の餌にしたという。このことによって、黄帝は桃板を門の戸に立て、その上に神荼と欝塁の像を描いて凶鬼を防いだ、
とある(仝上)。民間道教的な習俗らしいが、中国に日本的な「鬼門」の考え方はなく、日本だけで「鬼門」を深く嫌う、とある(仝上)。
「オニ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/461493230.html)の「鬼」(キ)の字は、
大きなまるい頭をして足元の定かでない亡霊を描いた象形文字、
とある(漢字源)。中国語では、本来、
おぼろげなかたちをしてこの世に現れる亡霊、
を指す。中国では、
魂がからだを離れてさまようと考え、三国・六朝以降は泰山の地に鬼の世界(冥界)があると信じられた、
ともあり、仏教の影響で、餓鬼のイメージになっていった、と見られる(台湾では鬼門は「この世とあの世をつなぐ」ものとされ、旧暦7月(鬼月)に鬼門が開くといわれる)。
和語「おに」も、「鬼」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/461493230.html)で触れたように、
和名抄「四声字苑云、鬼(キ)、於爾、或説云、穏(オヌノ)字、音於爾(オニノ)訛也、鬼物隠而不欲顕形、故俗呼曰隠也、人死魂神也」トアリ、是レ支那ニテ、鬼(キ)ト云フモノノ釋ニテ、人ノ幽霊(和名抄ニ「鬼火 於邇比」トアル、是レナリ)即チ、古語ニ、みたま、又ハ、ものト云フモノナリ、然ルニ又、易経、下経、睽卦ニ、「戴鬼一車」、疏「鬼魅盈車、怪異之甚也」、史記、五帝紀ニ、「魑魅」註「人面、獣身、四足、好感人」、論衡、訂鬼編ニ、「鬼者、老物之精者」ナドアルヨリ、恐ルベキモノノ意ニ移シタルナラム。おにハ、中古ニ出来シ語トオボシ。神代記ナドニ、鬼(オニ)ト訓ジタルハ、追記ナリ、
とある(大言海)。どうやら、鬼が島の鬼や、桃太郎の鬼は、後世のもので、そもそも「オニ」と訓んでいなかった。
恐ろしい形をした怪物。オニという言葉が文献にあらわれるのは平安時代に入ってからで、奈良時代の万葉集では、「鬼」の字をモノと読ませている。モノは直接いうことを避けなければならない超自然的な存在であるのに対して、オニは本来形を見せないものであったが、後に異類異形の恐ろしい怪物として想像された。それには、仏教・陰陽道における獄卒鬼・邪鬼の像が強く影響していると思われる、
とある(岩波古語辞典)。今日の「鬼」は、仏教や陰陽道の齎したものといっていい。『仮名暦略註』には、
鬼門、凡そ、方位の四隅に四門あり、……艮を鬼門とす、鬼門とは、陰惡の気の聚る所にして、百鬼出入りする門戸なり。故に、此方を犯す時は、百鬼善く世人を殺害す、
とある。まさに俗信である。
山片蟠桃は、
鬼門ということは、最澄、比叡山を開かんが為に言い出す処、あゝ憎むべし。山海経に曰く「東海度朔山に大桃樹り。蟠屈三千里、其の東北を鬼門という。万鬼の集まる所なり。二神あり、黄帝之を象り、桃枝を戸に立つ」と、これ鬼門の始めなり。史記にもこのことを云う。最澄、桓武帝をあざむき、王城の鬼門を守ると云うて、比叡山を創立す。東海度朔山は碣石(河北省)の東北にして、日本より西なり、……日本の東北にあらず、
と書く(「夢の代」)。最澄云々は誤解らしいが、下らぬ俗信にご立腹である。
しかし、この方角は、
陽神がきて、陰気が去っていく場所であるから、これを暦の節気に当てはめてみると、除夜に当たる。冬陰の殺気が退いて、春陽の生気が来る日であるからである。そこでわが国では、この日の夜には、家ごとに陽神の福を迎え、陰鬼の毒を追う行事を執り行う、
とある(広瀬・前掲書)。この、
福は内、鬼は外、
という節分の豆撒きは、宮中で大晦日の夜、悪魔を払い、疫癘を除くための、
追儺(ついな)の義式、
に由来する(仝上)。追儺は、
儺(だ、な)、
あるいは、
大儺(たいだ、たいな)、
駆儺。
鬼遣(おにやらい。鬼儺などとも表記)、
儺祭(なのまつり)、
儺遣(なやらい)、
等々とも呼ばれる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%BD%E5%84%BA)。
中国では、
熊の皮をかぶり黄金の四つ目の面をつけ、黒衣に朱裳(しゅしょう)を着した方相(ほうそう)氏という呪師が矛と盾を手にして、宮廷の中から疫鬼を追い出す作法を行った、
という(『周礼(しゅらい)』)。日本には、追儺は陰陽道の行事として取り入れられ、文武天皇の慶雲(きょううん)三年(706)に、諸国に疫病が流行して百姓が多く死んだので、土牛をつくって大儺(おおやらい)を行ったというのが初見(日本大百科全書)とある。『延喜式』によると、
宮中では毎年大晦日(おおみそか)の夜、黄金の四つ目の面をかぶり黒衣に朱裳を着した大舎人(おおとねり)の扮する方相氏が、右手に矛、左手に盾をもって疫鬼を追い払ったという(仝上)。
(吉田神社での追儺(『都年中行事画帖』) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%BD%E5%84%BAより)
「方相氏」(ほうそうし)とは、
「周礼」に見える周代の官名。黄金四目の仮面をかぶり、玄衣、朱裳を着用し、手に戈と楯を持って悪疫を追い払うことをつかさどったとされる。日本では、追儺の時に宮中の悪鬼を追い、また、葬送の時に、棺を載せた車を先導する役をした(「江家次第」 精選版日本国語大辞典)、
という。
舎人が鬼の紛争をして、これを内裏の四門をめぐって追いまわす。殿上人は桃の木の弓、葦の矢で鬼を射る、
とある(広瀬・前掲書)。
(方相氏(ほうそうし) 精選版日本国語大辞典より)
これが、民間で行われる二月の節分の豆撒きにつながるが、大晦日に豆撒きを行う例もある。この除夜の追儺はおそらく大祓(おおはらえ)の観念とも結び付いて展開したものと思われるが、そのほか、寺の修正会(しゅじょうえ)や修二会(しゅにえ)の際にもこの鬼やらいの式が行われた、とある(仝上)。
ただ、日本の民俗における鬼に対する観念は、豆撒きも鬼を追い払うのでなく神への散供(さんぐ)と考えられ、単に疫鬼、悪鬼というだけでなく、むしろ悪霊を抑える力強い存在(善鬼)とみるようなところがある(日本大百科全書)、とする考え方は、日本の俗信化した「鬼門」の考え方とは相いれない所があるように思える。
確かに、昔話に登場する「鬼」も、ほとんど恐ろしいイメージで統一されているが、
鬼という国語が意味するものは、荒ぶる神と同様な超人的な神霊であった。各地の伝承には自然地形を創造した神、山の神として信仰される鬼の姿が見いだされる。風神・雷神といった荒々しい神も、多く鬼のイメージでとらえられている、
とあり(日本昔話事典)、「鬼」と「神」は表裏になる。しかし、「オニ」は、もともと、
隠(おに)で、姿が見えない、
意という(広辞苑)。『和名抄』に、姿の見えないものを意味する漢語「隠(おん)」が転じて、「おに」と読まれるようになったとあることは、前述した。見えないものに「鬼」の字を当てたのには、それなりに意味があった。なぜなら、「鬼」の字は、前述の通り、
大きなまるい頭をして足元の定かでない亡霊を描いた象形文字、
であり(漢字源)、中国語では、本来、
おぼろげなかたちをしてこの世に現れる亡霊、
を指すからである。それをかつては、わが国では、
もの、
と呼んだ。
存在物、物体を指す「もの」という言葉があって、それが人間より価値が低いと見る存在に対して「もの」と使う、存在一般を指すときにも「もの」という。そして恐ろしいので個々にいってはならない存在も「もの」といった。
古代人の意識では、その名を傷つければその実体が傷つき、その名を言えば、その実体が現れる。それゆえ、恐ろしいもの、魔物について、それを明らかな名で言うことはできない。どうしてもそれを話題にしなければならないならば、それを遠いものとして扱う。あるいは、ごく一般的普遍的な存在として扱う。そこにモノが、魔物とか鬼とかを指すに使われる理由があった(大野晋は「『もの』という言葉」)、
のであり(http://www.fafner.biz/act9_new/fan/report/ai/oni/onitoyobaretamono.htm)、折口信夫は、
かみ(神)と、おに(鬼)と、たま(霊)と、ものとの四つが代表的なものであった(「鬼の話」)、
といっているので、「得体が知れない存在物」で「物」としかいいようのないもの(藤井貞和)が、
神と鬼とに分化、
していったとも見えるが、平安時代以前は、
「かみ」「たま」「もの」の三つであって「おに」は入らない(大和岩雄『鬼と天皇』)、
ともある(http://www.fafner.biz/act9_new/fan/report/ai/oni/onitoyobaretamono.htm)。
ということは、ぼくには、「もの」が「かみ」「たま」「もの」に分化(というより、「もの」から「かみ」と「たま」が分化)し、さらに「もの」から「おに」が分化していった、というように見える。
そして、「鬼」については、
民俗学上の鬼で祖霊や地霊。
山岳宗教系の鬼、山伏系の鬼、例、天狗。
仏教系の鬼、邪鬼、夜叉、羅刹。
人鬼系の鬼、盗賊や凶悪な無用者。
怨恨や憤怒によって鬼に変身の変身譚系の鬼。
という五種類に分類(馬場あき子)されるらしい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC)。この、わが国の「鬼」像の、
神から凶漢まで、
の奥行きの中で見たとき、「鬼門」は、どこか、限定された底の浅い「鬼」像でしかないことに気づかされる。
もうひとつ、こういう「鬼」像とは別に、「鬼」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/430051927.html)で触れたように、『日本書紀』が、
まつろわぬ「邪しき神」を「邪しき鬼(もの)」、
としている、得体の知れぬ「カミ」や「モノ」、あるいは、
化外の民、
が鬼として観念されていることを忘れてはならない。つまり、
鬼とは安定したこちらの世界を侵犯する異界の存在だという。鬼のイメージが多様なのは、社会やその時代によって異界のイメージが多様であるからで、まつろわぬ反逆者であったり法を犯す反逆者であり、山に住む異界の住人であれば鍛冶屋のような職能者も鬼と呼ばれ、異界を幻想とたとえれば人の怨霊、地獄の羅刹、夜叉、山の妖怪など際限なく鬼のイメージは広がる(岡部隆志)、
ということでもある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC)。昔話の「鬼退治」の背景にはこんなこともあることも留意しておく必要がある。
参考文献;
広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』(近藤出版社)
内田正男『暦と日本人』(雄山閣)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:鬼門