2021年07月07日
暦より暦注好き
広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』読む。
『隋書』東夷伝に登場した琉球が、
草木の栄枯をうかがって年歳とする、
といった、
四囲の自然界の様子の変化、
によって奇説を把握したという原始的方法は、それより数百年前の、魏志倭人伝(の裵松之の注)に、
其俗正歳四時を知らず。但々春耕・秋収を記して年紀と為すのみ、
と記された倭人の四季感とよく似ている。日本に、中国の暦と暦法が伝来するのは、さらに数百年後、欽明天皇十四年(553)、
醫博士(くすしのはかせ)・易博士(やくのはかせ)・暦博士(こよみのはかせ)ら、番(つがい)によりて上(もうで)き下(まか)れ。今上(かみ)の件(くだり)の色(しな)は、正に相代わらむ年月に当たれり。還使(かえるのつかい)に付(さず)けて相代わらしむべし。又、卜書(うらのふみ)・暦本(こよみのためし)・種種(くさぐさ)の薬物(くすり)、付送(たてまつ)れ、
と初めて「暦」が登場する。醫博士(くすしのはかせ)・易博士(やくのはかせ)・暦博士(こよみのはかせ)らを、
先進国百済から雇傭していた、
のである。この時の百済の国暦は、宋朝で作られた「元嘉暦」とされる。中国で制定された暦法が正史に載るのは、漢の武帝の太初元年(前104)に施行された、
三統暦、
であり、元嘉暦まで五百年余過ぎている。さらに、実際に暦法を実施したのは、七世紀に近い持統朝になる。しかも、このときは、古い、元嘉暦と儀鳳暦(と呼ばれたが実際は唐の第二暦「鱗徳暦」)である。以後、大衍(たいえん)暦(763)、五紀暦(857)、宣明暦(862)、と中国暦に準じて改暦したが、以後、貞享元年(1684)までの、823年間、日本では、古い宣明暦を使い続ける。
遣唐使廃止(894)以後、中国との文化交流が非公式のものになったせいもあるにしても、日本人の、この暦認識の鈍感さは、ある意味筆すべきものがある。
これは、日本人が、暦注に書かれた、
日の吉凶、
には敏感であったが、ある意味、天文や科学への鈍感さとも関わるのではないか、という気がしてならない。確かに、
宣明暦法は優秀な暦法であったが、その大きな欠点は、そこで採用されている太陽年の長さが約3.5分(0.0024日)長すぎることである。微小な違いであるが、800年以上も使っていると、この違いの八百倍、すなわち二日以上に達する。換言すると、太陽は一日に約一度角天上を移動するので、江戸時代のはじめには、宣明暦で推算される太陽の天上の位置は、実際の太陽の位置より、約二度角遅れた場所を指示していることになってしまう。これを「天上二日を違う」とよくいい表わされている……。(中略)月は太陽を、一日に約十二度角の速度で追いかけるので、太陽の位置二度に対して、日食の時刻の予報誤差は約0.2日(4、5時間)に過ぎない、
にしても、ようやく江戸時代になって、最新の元の授時暦(1280)への改暦の議論が漸く起こってくる。そして初めて、渋川春海が、授時暦をもとに、日本人による初めての暦法、
大和暦、
を完成させ、貞享元年(1684)、
貞享暦(じょうきょうれき)、
の勅命を受け、始めて国暦が採用されるに至る。以後、宝暦、寛政、天保の改暦をへて、明治五年(1872)、
太陽暦、
が採用される。その詔書に曰く、
朕惟フニ、我邦通行ノ暦タル、太陰ノ朔望ヲ以テ月ヲ立テ、太陽ノ躔度(てんど 天体運行の度数)ニ合ス。故ニ二三年間、必ス閏月ヲ置カサルヲ得ス、置閏ノ前後、時ニ季候ノ早晩アリ、終ニ推歩ノ差ヲ生スルニ至ル、殊ニ、中下段ニ掲ル所ノ如キハ、率(おおむ)ネ妄誕無稽(もうたんむけい)ニ属シ、人知ノ開達ヲ妨ルモノ少シトセス、蓋シ、太陽暦ハ、太陽ノ躔度ニ従テ月ヲ立ツ、日子多少ノ異アリト雖モ、季候早晩ノ変ナク、四歳毎ニ一日ノ閏ヲ置キ、七千年ノ後僅ニ一日ノ差ヲ生スルニ過キス。之ヲ太陰暦ニ比スレハ、最モ精密ニシテ、其便不便モ固リ論ヲ俟タサルナリ、依テ自今旧暦ヲ廃シ、太陽暦ヲ用ヒ、天下永世之ヲ遵行セシメン、百官有司、其レ斯旨ヲ体セヨ、
ともっともらしいが、ほとんど議論らしい議論をせず、しかも、
グレゴリオ暦の肝心な要素である「西暦年数が100で割り切れるが400で割り切れない年(400年間に3回ある。)を、閏年としない」旨の規定が欠落、
し(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%82%AA%E6%9A%A6)、このままでは導入された「新しい太陽暦」はグレゴリオ暦ではなく、さりとて日付が12日ずれているためユリウス暦そのものでもなく、「ユリウス暦と同じ置閏法を採用した日本独自の暦」となってしまう。また、布告の前文にある文面もおかしく、グレゴリオ暦で実際に1日の誤差が蓄積されるのに要する年数は約3200年であるにもかかわらず、「七千年ノ後僅ニ一日ノ差ヲ生スルニ過キス」としていた(仝上)、という杜撰な物であった。これは、当時参議であった大隈重信が、国庫窮乏のため、
太陽暦の採用によって、明治六年の閏月に対する官吏俸給の支出を節約し、同時に年初改正によって生じる明治五年十二月の俸給支出まで節約する、
という妙手として、改暦を採用した。つまり、
旧暦のままでは明治6年は閏月があるため、13か月となる。すると、当時支払いが月給制に移行したばかりの官吏への報酬を、1年間に13回支給しなければならない。これに対して、新暦を導入してしまえば閏月はなくなり、12か月分の支給で済む。また、明治5年12月は2日しかないことを理由に支給を免れ、結局月給の支給は11か月分で済ますことができる、
からなのである(仝上・内田正男『暦と日本人』)。それは、
王政維新の前に在りては、何れも年を以て計算支出せしといへども、維新の後に至りては月俸と称して、月毎に計算し支出することとなれり。然るに太陰暦は太陰の朔望を以て月を立て、太陽の躔度に合するが故に、二、三年毎に必ず一回の閏月を置かざるべからず。其の閏月の年は十三箇月より成れるを以て、其の一年だけは、俸給、諸給の支出額に比して十二分の一を増加せざるべからず(大隈重信『大隈伯昔日譚』)、
とのためである。人々を混乱に陥れた太陽暦への改暦が、科学的な理由でも、近代化の理由でもなく、旧暦の閏月分を節約するという、姑息な理由なのである。
こう見ると、「暦」をめぐって、日本人が、中国暦から西洋暦へと、衣を着かえるように、脱ぎ変えただけだ、ということがよく分る。これは、ある意味、すべての領域で、いまもつづく、よく言えば変わり身の早さ、悪く言えば、思想も科学も、単なる衣装でしかない、ということを象徴しているように思える。社会科学が、いつまでも西洋を倣い、追従するだけなのは、結構根深いものがあるのである。
参考文献;
広瀬秀雄『暦(日本史小百科)』(近藤出版社)
内田正男『暦と日本人』(雄山閣)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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