2021年07月31日
自力救済
神田千里『戦国乱世を生きる力』を読む。
戦国時代を象徴するキーワードは、土一揆、一向一揆、國一揆の、
一揆、
であり、その、
一味同心、
であり、その拠って立つ、
自力救済、
自検断(じけんだん)
である。その中心にいるのは、
地下人(じげにん)、
と呼ばれる一般民衆であり、その象徴的存在が、
足軽、
である(「足軽」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/462895514.html)については触れた)。
戦国乱世といわれた十五世紀半ばから十六世紀末までの150年間は、
「ほとんど毎年のように不作、飢饉、疫病の流行、ないしその原因となるような旱魃、風水害、地震など災害があり、例外は10年に満たない。」
とされる。こうした災害を生き延びるには、
「村を立て稼ぎに行くこと、ことに大名などに従軍して戦場で稼ぐこと」
であった。こうした中で、
「生きのびるためにはまた、集団の規律に従わなくてはならなかった。当時の村も町も住民たちが組織をつくり自治を行っていた。権威を失墜させた『御上(おかみ)』が少しもあてにならず、日常の治安さえ守ってくれない時代としては……頼れるものは自分たちの力のみ、だから当時の民衆の多くは生まれながらに自治の担い手であった。」
自治とは、
「自分自身の所属する集団の力を結集してすべてを仕切ることである。平たくいえば自分の命を含めていっさいを委ねる自前の親分を創り出すことである。」
とある。象徴的なのは、
土一揆(つちいっき)、
である。たとえば、寛正三年(1462)に京都を襲った土一揆では、
「大将の蓮田兵衛のもとに東福寺門前・宇賀辻子・南禅寺門前になどの寺領、伏見・竹田など京都の南の村から、あるいは遠く丹波国須智村から、さらに法苑寺など寺院内部から三々五々結集して徳政一揆が蜂起した」
のであり、それは、足軽集団が、
「文明三年正月ごろ、遍照心院領の住民で足軽大将の馬切衛門五郎というものが京都の八条で足軽の募集をおこなった。」
という形成過程と類似しており、
「足軽集団と土一揆とはきわめてよく似た方法で結成」
された、臨時のプロジェクトチームのようなのである。
「大義名分の中味はそれぞれに異なっていても、土倉・酒屋からの略奪という目的、大義名分(土一揆は「徳政」、足軽は「兵粮米確保」)をふりかざしての略奪という行動形態」
では、土一揆も足軽も類似しており、対する土倉を初めとする町衆も、
「明応四年(1495)の土一揆蜂起の折には、土倉の軍勢や町人たちが土一揆と戦っている。両者の合戦で、当初、土一揆の優勢が伝えられ、必ず徳政が行われるとまで噂されたが、その後、土倉の軍勢が優位にたち、もはや徳政はない、との噂が流れた。土倉をはじめとする京都住民の軍勢が情勢を大きく左右するようになっていたのである。」
と、やはり自衛行動をとる。このことは、守護や大名に対する国衆も同じような自衛行動をとる。たとえば、山城国一揆では、国衆が守護代が各荘園から「年貢・諸公事物」などから五分の一を徴収するために入部しようとしたところ、国衆の面々は、
「向日神社で談合を行い『五分の一』を支払う代償に『当郡(乙訓郡)を国持』に、つまり国人ら自らの管轄とし、守護代の入部を謝絶することに決定」
したのである。それは、
「『国』の秩序を維持すべき守護家が内部抗争に明け暮れ、その動員した軍隊が『国』の寺院や民家を放火し襲撃し、『国』の住民が甚大な被害をこうむることはみずから解決すべき『惣国の大義』であった」
と。それは村々にとっても同じであった。
「むろん彼らの一揆蜂起は、自分自身の利害に基づいたものである。自分たちの利益になると思えば領国の大名にも忠義を尽くす。反対に謀叛のほうが利益になると思えば、今川氏真を見限り徳川家康に味方した遠江住民のようにする。自分たちの安全保障にとって、より利益となるほうについて武力行使をするのである。」
戦国大名の存在理由は、
「何より戦乱、災害に対処する危機管理能力」
であるのは、彼らが、領民を守ってくれる力があるかどうかが、敵国からの略奪、簒奪から身を守れるかどうかがかかっているからである。
戦国大名は、
家来として臣従する領内の武士たちの団結した総意に擁立されて、権力の座についており、
それを、
一揆結合による推戴、
とされる。たとえば、島津友久ら嶋津一族が連署した、
一揆契約状、
には、
談合の時心中を残さず述べるべきである、
という一項があるが、それは蓮如の、
わが心中をば同行のなかで打ち出しておけ、
という言葉にも通じ、さらにそれは、信長の勝家宛ての条書の、
信長の命令を必ず聞く覚悟が大事である。だからといって納得できない命令にへつらって従うようなことをしてはならない。納得できない場合は申し出よ、聞き届け、それにしたがうであろう、
という言葉にもつながる、
一味同前、
という、共通した時代精神のようである。
一味同心、
とは、
揆を一(いつ)にする、
という一揆の、
「通常の手段では対処することのできない困難にぶつかったときに、この『一味同心』の団結によって対処した。」
とされる。それは、村人や土一揆だけではなく、一向一揆にも、国人にも、通底する時代精神であったことが分る。
本書は、戦国時代を、
地下人、
の側から、どう身を守り、どう生き抜いていったかを、従来の戦国武将の視点からではなく描いたところに新しさがある。共通する自立した、
自力救済、
のマインドを描いている。その意味で、
「乱世の芯の主役は戦乱のなかを逃げまどった民衆である、とすら思えてくる。彼らの一人一人が、何かめざましい働きをした、ということはないが、めざましい働きをした戦国大名や一揆、そして天下人を動かしたのは、彼ら民衆ではなかろうか。織田信長や豊臣秀吉、あるいは武田信玄や上杉謙信がいかに偉大だったかを考える以上に、民衆が偉大な彼らにいかに無言の圧力を加えていたかを考える必要があるように思われる。」
という言葉は、戦国時代の、民衆から、村衆・町衆・国衆と、
それぞれの自力救済という層の上に乗った戦国大名、
という実態を考えるとき、重みがある。
参考文献;
神田千里『戦国乱世を生きる力』(ちくま学芸文庫)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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