2021年08月12日
信長像
和田裕弘『信長公記―戦国覇者の一級史料』を読む。
いわゆる『信長公記』は、
「牛一の自筆本、写本を含めて数多くの伝本が伝わっている。『信長公記』の一部に相当する短編や残闕本などを含めると七十本以上が確認されている。」
という。『信長公記』は、
「足利義昭を奉じて上洛の師を起こした永楽十一年(1568)から、本能寺の変で斃れる天正十年(1582)までの十五年間を、一年一冊(一帖)ずつまとめた『本編』と、これに上洛以前のことを記した『首巻』を伴ったものとの二種類」
に大別される。
しかし、自筆本は、
建勲神社所蔵『信長公記』(建勲本) 本編のみ。信長の弟長益(有楽斎)系の織田家旧蔵、
池田家文庫所蔵『信長記』(池田本) 本編のみ。池田輝政が牛一に求めて入手、
『太田牛一旧記』(旧記) 大坂本願寺との戦いが中心、
『永禄十一年紀』 巻一に相当する部分のみ、
の四本とされる。短編には、
『信長公記』の中から、ある出来事だけを抜き出したと思われるもの、
「本編」が部分的に伝わっているもの、
「首巻」(上洛以前)だけのもの、
等々が確認されているが、短編としては、『永禄十一年紀』の他、
「安土城のことを記した『安土御天主之次第』、本願寺の大坂退去を記した『新門跡大坂退散之次第』などが確認されている。」
が、
「もともと短編として完成していたものを『信長公記』に組み込んだと思われる」
ものもあり、また、
「重要な出来事や牛一が直接見聞したものは短編としてまとめていた可能性もある。確認されていないが、『信長公記』の記述から推測すると、天正七年(1579)に信長は京都屋敷(二条御新造)を誠仁(正親町天皇皇太子)一家に譲ったが、その顛末を記したものや、天正三年の長篠の戦いをまとめたものなどが想定される。これらは『信長公記』とは違う書名で伝わっている可能性もある」
とあり、『信長公記』をめぐっては、まだまだ今後に残された課題は多い。
メモ魔として知られる牛一は、たとえば、信長の最後について、
「信長初めには御弓を取り合い、二・三つ遊ばし候えば、何れも時刻到来候て、御弓の弦切れ、その後御鑓にて御戦いなされ、御肘に鑓疵を被られ引き退き、この時までおそばに女ども付きそいて居り申し候を、女は苦しからず、急ぎ罷り出よと仰せられ、追い出させられ、すでに御殿に火を懸け焼け来たり候。御姿をお見せあるまじきとおぼしめされ候か、殿中奥深く入り給い、内よりお南戸の口を引き立て、情けなくお腹めされ候。女どもこの時まで居り申し候て様躰見申し候」(池田本)
とあるのも、逃れてきた女房衆から取材したことが分る。さらに『信長公記』の伝本の中には、肘の疵は鑓疵ではなく、鉄炮疵と改めてあるもの、手にしていたのは鑓ではなく、長刀としているものもあり、情報を得て書き換えた可能性がある。
太田牛一は、
「(尾張国)春日井郡山田庄のうちの天台宗の成願寺に育ったという。信長の弓衆として仕え、のち信長の重臣丹羽長秀の与力に転じた。」
と、信長の近くに従い、自身の『信長公記』奥書に、
「故意に削除したものはない。また、創作もしていない。もし、これが嘘なら天罰を受けるだろう」
と記し、他の軍記ものとは一線を画した信頼性の高さがある、とされる。だから、著者は、
「信長を敬愛し、その臣下であったことを誇りとした太田牛一が、もし『信長公記』を著していなかったら、今日、われわれが思い描く信長像は、奥行きのないもっと平板なものだったと思わざるを得ない。とくに信長の前半生は、残された史料も少なく、まとまった史料としては『信長公記』しかないといっても過言ではない。」
と書いた。
その意味で多くのエピソードは、かなり知られているが、僕は本書で、信長に対しての反応が、
斎藤道三、
と
武田信玄、
がほとんど同じだったと書いたのが面白い。ひとつは、有名な道三と信長の初対面の場面で、湯漬けを食し、盃を交わした折、
附子(五倍子)を噛みたる風情にて、またやがて参会すべしと申し、
帰国の途に就いたが、
お見送り候、その時、美濃衆の鑓は短く、こなたの鑓は長く控え立ち候て参り候を、道三見申し候て、興を醒ましたる有様にて、有無を申さず罷り帰り候、
とあり、帰路、側近の猪子兵介(高就)が、
何と見申し候ても上総介はたわけにて候、
と言ったのに対して、
されば無念なることに候。山城が子供、たわけが門外に馬を繋ぐべきこと、案の内にて候、
と予言した。猪子は、後に信長側近として仕え、本能寺で信長に殉じた。
いまひとつは、武田信玄が、尾張の天永寺の天沢という天台宗の師僧が甲斐を通過時対面し、信長のことを聞いた折、
五倍子を噛みたる体、
だったと記す。牛一は同じ天台宗の僧として天沢と面識があった。
五倍子を噛んだような苦り切った様子、
の「五倍子(ごばいし)」とは、
付子(ふし)、
とも言う。
ヌルデ、
の別称だが、
ヌルデの若芽や若葉などにアブラムシが寄生してできる虫癭(ちゅうえい)(虫こぶ)、殻にタンニンを多量に含み薬用として用いられるほか、染織やインク製造に用いられる、
とある(デジタル大辞泉)。昔は、この粉を歯を黒く染めるのにも用いた(広辞苑)。タンニンは、
口に入れると強い渋味を感じさせる、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%83%B3)ので、
苦い、
とか、
苦々しい、
という含意になる。「苦々しい」とは、
心の中で、そのことをおもしろくなく感じる、
非常に不愉快だ、
たまらなくいやだ、
という意味になる(精選版日本国語大辞典)。それは、
嫌悪、
というより、
口に合わない、違和感、
というか、
自分の価値に反しているが、言い知れぬ脅威、
を感じる、という含意だろうか。道三の言葉を見る限り、信長への脅威が感じられているように見える。
参考文献;
和田裕弘『信長公記―戦国覇者の一級史料』(中公新書)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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