2021年08月19日

八百比丘尼


「八百比丘尼」は、

やおびくに、

と訓むが、

はっぴゃくびくに、

とも訓ませ、

白比丘尼(しらびくに)、

とも呼ばれる、

800歳まで生きた長命の比丘尼、その姿は17~8(あるいは15~6)歳の様に若々しかった、

といわれる、

長寿伝説、

の一つである。「白比丘尼」のシラ(白)は、

再生するという古語であり、シラ比丘尼の長寿は、巫女の特つ霊力とかかわるものであろう、

とされる(朝日日本歴史人物事典)が、別に、

少女の白肌のままだったから、

ともされる(世界宗教用語大事典)。

「八百比丘尼」が、全国を旅したという伝説は各地に残っていて、八百比丘尼伝説は、

北海道と九州南部以南を除くほぼ全国に分布している、

といわれhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%99%BE%E6%AF%94%E4%B8%98%E5%B0%BC、日本海側では、能登・越後から出雲・隠岐にかけて分布していて、

海上交通によって伝播されたもの、

とされる(日本伝奇伝説大辞典)。太平洋側では、土佐須崎、播磨・安芸、内陸部の会津・尾張にも伝えられ、その伝説は、

全国28都県89区市町村121ヶ所にわたって分布しており、伝承数は166に及ぶ(石川・福井・埼玉・岐阜・愛知に多い)、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%99%BE%E6%AF%94%E4%B8%98%E5%B0%BCが、これら伝説の中心と目されているのは、北陸から能登地方である(朝日日本歴史人物事典)。

長寿の原因を、多くの伝説は、

人魚、

わずかな例では、

九穴の貝(「あわび」とされる)、

を食したことに帰している(日本伝奇伝説大辞典)。若狭の伝承によると、

今浜の須崎村において余所から来た漁師が人魚を調理して村人たちに馳走した。村人たちは怪しんで食べる真似をした。一人の者が肉を袖に入れて持ち帰り棚にのせておいたところ、その妻が食べてしまった。容色が若返って海仙になり、七世余り生きながらえて諸国を遊行ののち小浜に住んだ(笈埃随筆)、

とか、

小浜の長者たちの集まりがあって、今度は海辺の人の所で催すことになった。その日、長者たちは迎えの船に乗り込んだ。途中水中に潜るように感じたが、無事家に到着した。ふと炊事場をのぞくと少女のようなのを俎上にのせて料理している。みなが焼き物に箸をつけずにおくと、帰り際に土産を持たせてくれた。その焼き物を高橋長者の娘が食べてしまい、数百年も歳をとらず生きて八百比丘尼と呼ばれた。海辺の人とは竜宮城の人で、焼き物は人魚の肉であった(拾椎雑話)、

とある(仝上)。別に尾張の伝説では、

昔この辺りが浜辺であったころ、漁師が首から上が人間で後は魚という奇魚を捕らえた。土地のものが気味悪がっていると、通りがかりの旅人が災難を逃れるための庚申祭を教えてくれた。その通りに祭事を営んだところ、小娘が奇魚の肉片を食べて不老長寿の身となる。やがて、髪をおろして諸国を巡り歩いたのちに若狭の国に至り、八百歳にしていきながら洞窟に入った、

とある(仝上)。若狭小浜の空白寺(くういんじ)は八百比丘尼が最後に住んだところとされ、門前に入定窟とされる洞窟がある。

八百比丘尼入定洞(福井県小浜市空印寺).jpg

(八百比丘尼入定洞(福井県小浜市空印寺) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%99%BE%E6%AF%94%E4%B8%98%E5%B0%BCより)

『康冨記』(文安六年(1449)5月26日の記事に、若狭国から上洛し、

白髪の巫女めいた老尼が都に現れ、みずから若狭白比丘尼とも八百歳老尼とも称した、

という話が載り、

二百余歳の比丘尼、

とある(日本昔話事典)。この話は、当時かなり喧伝され、『臥雲日件録』『唐橋綱光卿記』等々にも記されている。

自らをその長命の女と称して巡行している女、

がいたらしいことを推測させる記事で、源平の時代を見てきたように話すものもいた、ともある。

ただ、比丘尼伝承で、釣で手に入れたという話は少数派で、多くは、

異人饗応譚、

とされる(仝上)。たとえば、

ある男が、見知らぬ男などに誘われて家に招待され供応を受ける。その日は庚申講などの講の夜が多く、場所は竜宮や島などの異界であることが多い。そこで男は偶然、人魚の肉が料理されているのを見てしまう。その後、ご馳走として人魚の肉が出されるが、男は気味悪がって食べず、土産として持ち帰るなどする。その人魚の肉を、男の娘または妻が知らずに食べてしまう。それ以来その女は不老長寿を得る。その後娘は村で暮らすが、夫に何度も死に別れたり、知り合いもみな死んでしまったので、出家して比丘尼となって村を出て全国をめぐり、各地に木(杉・椿・松など)を植えたりする。やがて最後は若狭にたどり着き、入定(にゅうじょう)する。その場所は小浜の空印寺と伝えることが多く、齢は八百歳であったといわれる、

とかhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%99%BE%E6%AF%94%E4%B8%98%E5%B0%BC

父親が山中で異人に会い、招かれて隠れ里に行ったが、人魚の肉を御馳走され、食べずに持ち帰ったのを何も知らない娘が食べて長命を得た(本朝神社考)、

とか(日本昔話事典)、といったものとされる。しかも「庚申講」の肴とされるところに、この伝説が、

庚申講の夜に語られたもの、

と思わせる(日本伝奇伝説大辞典)、とある。新潟県佐渡市南部の旧羽茂(はもち)町地域の八百比丘尼伝説では、

庚申講に加わった男が次の講に人々を招く。台所をのぞくと人魚を料理している。だれも手をつけないが、ある人が捨て忘れて家に持ち帰ったのを、その家の娘が食べてしまう。娘は年をとらないわが身をかえってはかなみ、生地を離れて諸国を巡り、八百歳で若狭の地で入定した、

とされている(日本大百科全書)。

殆どの伝承で、八百比丘尼は、最後に空印寺の岩窟に籠って入定(にゅうじょう)することになっているが、「八百比丘尼」は、

岩窟の前に椿の花を挿し、この枝が枯れたら私も死ぬだろうと言い残して中に消えた、

という。この椿の木について、

八百比丘尼を名乗り、唱導ないしこの物語の伝播に与った……比丘尼がおり、所々に実を播き枝を指し、その成長ぶりをみて神意を卜する風習があったのではないか、

とする説(柳田國男)、また、

女の唱導者が椿を持ち歩いて春の言触れをした、

とする説(折口信夫)などがあり、この唱導者は、

熊野念仏比丘尼と山から里へ鎮魂に訪れるいわゆる山姥の結合したもの、

とみる見方もある(仝上)。

北陸から東北地方にかけての沿岸部には、椿がまとまって茂る聖地が点在している。椿は、春の到来を告げる花とみなされ、椿の繁茂する森は信仰の対象となっていた。旅をする遍歴の巫女が、椿の花を依代にして神霊を招いたものと想像されている、

とある(朝日日本歴史人物事典)のが妥当かもしれない。また、

この比丘尼たちが地に挿した箸や杖が老木になった、

という伝承も多く残り、彼女たちが残したとされる塚や石塔も多い。これは、

巡行する巫女・修験者たちが木を植え、石を立てる風習を持ち、挿木取木の秘術を知っていた、

とする説もある(日本昔話事典)。

比丘尼 (2).jpg

(比丘尼 比丘尼 (『職人尽歌合』) https://www.benricho.org/Unchiku/edo-syokunin/07-1769syokuninzukushiutaawase/02.htmlより)

因みに、「比丘尼」とは、

パーリ語 bhikkhunī、サンスクリット語 bhikṣuṇīの音訳(苾蒭尼(びっしゅに)とも音訳する)、

つまり、

出家して具足戒(三四八戒)を受けた女子、

である(精選版 日本国語大辞典)、

尼(あま)、
尼僧、

をいう。

びくにん、

ともいう。具足戒とは、

「具足」は近づくの意で、涅槃に近づくことをいう。また、教団で定められた完全円満なものの意とも、

あり(仝上)、

比丘、比丘尼が受持する戒律。四分律では、比丘は250戒、比丘尼は348戒を数える、

とある。

具戒、
大戒、

ともいう。日本では一般に、

出家得度して剃髪し染衣を着け、尼寺にあって修行する女性、

を指すhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BCとあり、

尼法師、
尼御前(あまごぜ)、
尼前(あまぜ)、

とも呼ばれる。

参考文献;
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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