2021年08月30日

久米仙人


「久米仙人(くめのせんにん)」は、

久米寺の開祖、

と伝えられる人であるが、

大和の国の人、……吉野郡の龍門寺に籠りて、仙の法を行ひ、仙人と成りて、空に昇りて、飛渡る閒に、吉野川の邉に、若き女の、衣を洗ふとて、衣を掲げて、白き脛をあらはしたるを見て、心、穢れて其女の前に落ち、遂に夫婦と成りて、凡人となりしと云ふ、

とある(大言海)。

『和州久米寺流記』には、

毛堅仙、

『本朝神仙伝』には、

堅仙人、

とあるが、久米仙人に関する話は、

『七大寺巡礼私記』
『和州久米寺流記』
『元亨釈書』
『扶桑略記』

等々の仏教関係だけでなく、

『今昔物語集』
『徒然草』
『発心集』

その他にも記述があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E7%B1%B3%E4%BB%99%E4%BA%BA。『徒然草』第八段「世の人の心惑はす事」には、

世の人の心惑はす事、色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな。
匂ひなどは仮のものなるに、しばらく衣裳に薫物すと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり。九米の仙人の、物洗ふ女の脛の白きを見て、通を失ひけんは、まことに、手足・はだへなどのきよらに、肥え、あぶらづきたらんは、外の色ならねば、さもあらんかし、

とある。仙人は、「手足・はだへなどのきよらに、肥え、あぶらづきたらんは、外の色ならねば」、

心穢れて、

通力を失ったのである。

しかし、普通の人となった「仙人」は、高市郡(たけちこおり)の都を設営するたって、その工事に、人夫として駆り出されることになる。

久米仙人の図 ① 月岡雪鼎.jpg

久米仙人の図② 月岡雪鼎.jpg

(久米仙人の図(月岡雪鼎 https://rupe.exblog.jp/19378689/より)

『今昔物語』巻11第24話「久米仙人始造久米寺語」では、

然る間、久米の仙、其の女と夫妻として有る間、天皇、其の国の高市の郡に都を造り給ふに、国の内然るに(ぶ)を催して、其の役とす。然るに、久米、其の夫に催出されぬ。余の夫共、久米を、「仙人、々々」と呼ぶ。行事官の輩有て、是を聞て問て云く、「汝等、何に依て彼れを仙人と呼ぶぞ」と。夫共、答て云く、「彼の久米は、先年龍門寺に籠て、仙の法を行て、既に仙に成て空に昇り飛び渡る間、吉野川に女、衣を洗ひて立てりけり。其の女の褰(かか)げたる脛白かりけるを見下しけるに、本其の心穢れて忽ち其の女の前に落て、即ち其の女を妻として侍る也。然れば、其れに依て仙人とは呼ぶ也」。
行事官等、是を聞て、「然て止事無かりける者にこそ有なれ。本仙の法を行て、既に仙人に成にける者也。其の行の徳、定て失給はじ。然れば、此の材木、多く自ら持運ばむよりは、仙の力を以て、空より飛しめよかし」と、戯れの言に云ひ合へるを、久米、聞て云く、「我れ、仙の法を忘れて年来に成ぬ。今は只人にて侍る身也。然許の霊験を施すべからず」と云て、心の内に思はく、「我れ、仙の法を行ひ得たりきと云へども、凡夫の愛欲に依て、女人に心を穢して、仙人に成る事こそ無からめ。年来行ひたる法也。本尊、何(いかで)か助け給ふ事無からむ」と思て、行事官等に向て云く、「然らば、若やと祈り試む」と。行事官、是を聞て、「烏滸(をこ)の事をも云ふ奴かな」と思乍ら、「極て貴かりなむ」と答ふ。
其の後、久米、一の静なる道場に籠り居て、身心清浄にして、食を断て、七日七夜不断に礼拝恭敬して、心を至して此の事を祈る。然る間、七日既に過ぬ。行事官等、久米が見えざる事を、且は咲ひ且は疑ふ。然るに、八日と云ふ朝に、俄に空陰り暗夜の如く也。雷鳴り雨降て、露物見えず。是を怪び思ふ間、暫許(とばかり)有て、雷止み空晴れぬ。其の時に、見れば、大中小の若干の材木、併ら南の山辺なる杣より空を飛て、都を造らるる所に来にけり。其の時に、多の行事官の輩、敬て貴びて久米を拝す、

と後日譚を記す。で、

其の後、此の事を天皇に奏す。天皇も是を聞き給て、貴び敬て、忽に免田卅町を以て久米に施し給ひつ。久米、喜て、此の田を以て其の郡に一の伽藍を建たり。久米寺と云ふ是也。
其の後、高野の大師、其の寺に丈六の薬師の三尊を、銅を以て鋳居へ奉り給へり。大師、其の寺にして大日経を見付て、其れを本として、「速疾に仏に成るべき教也」とて、唐へ真言習ひに渡り給ける也。然れば、「止事無き寺也」となむ、語り伝へたるとや、

と久米寺創建譚へつながるのである。『七大寺巡礼私記』、『和州久米寺流記』によると、

聖武天皇(在位 724~49)の命により東大寺に大仏殿を建立(竣工 758)する際、久米仙人は俗人として夫役につき、材木の運搬に従事していた。周囲の者が彼を仙人と呼んでいるのを知った担当の役人は、……「仙人ならば神通力で材木を運べないか」と持ち掛けた。七日七夜の修行ののち、ついに神通力を回復した彼は8日目の朝、吉野山から切り出した材木を空中に浮揚させて運搬、建設予定地に着地させた、

ということになっているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E7%B1%B3%E4%BB%99%E4%BA%BA。別に、『和州久米寺流記』では、その後百数十年、久米寺に住んだ久米仙人と妻はどこかへ飛び去ったという後日談を記し(仝上)、

ある日忽然と久米仙がいずかたかへ飛び去った後、残された妻は久米を恋い慕って死し、七箇日に当たる日、久米が帰って妻のために呪願すると、妻は蘇生し夫婦とも西方を指して飛び去った、

とあり、

世に伝へて云はく、仙人は十一面観音、嫗は大勢至菩薩なり、

と割注があるという(日本伝奇伝説大辞典)。

ただ、『扶桑略記』は、

本朝往年有三人仙。飛龍門寺。所謂大伴仙、安曇仙、久米仙也。大伴仙草庵。有基無舎、余両仙室。于今猶存、

と、仙人は三人であると記し、久米仙が、飛行中落下し、その大和国高市郡に精舎を建て、丈六の金銅薬師仏と日光月光像を鋳て据え奉った、とあるのみで、女人も、川の名も示さないで、久米寺創建の旨のみ記す(日本伝奇伝説大辞典)。

ここに出る、

大伴、安曇、久米、

は、古代氏族の名であり、久米寺は、大和志料によると、

白橿村大字久米にあり、

とあり、現在の橿原市久米町にある。畝傍山の南にあるこの辺りは、古く久米部が居住していたらしい。大和平定の功により、久米部が賜った地という(守屋俊彦「久米の仙人」)。久米寺は、氏族久米部の氏寺ではなかったか、という推測も成り立つ(仝上)。

『元亨釈書』では、

入深山学仙法。食松葉服薛荔。一且騰空。飛過故里。会婦人以足踏浣衣。其脛甚白。忽生染心。即時墜落、

とあり、この地が「故里」であったとある。『和州久米寺流記』では、だから、

此毛堅仙常自龍門嶽飛通葛木峯。於其途中久米河有洗布之下女。仙見其股色愛心忽発。通力立滅落于大地畢、

と、故里の久米川に落ちたことになる(仝上)。だから、この、

久米の仙人が、久米川のあたりで女の白いはぎをみて落下した、

というのが、原形ではないか(仝上)、という推測が成り立つようだ。

春潮 久米仙人.jpg


ただ、この久米仙人説話については、『菩薩処胎経』(巻第七緊陀羅品第三十)にある、

ある人、深山にあって仙人の法を学び能く成就して五百の弟子をもっていたが、仏の出世を聞きこれを拝せんものと山を出て空を飛び、王宮の後園の浴池を過ぎたとき、多くの采女たちが池で洗浴するのを見て染愛の心をおこし、通力を失って薗中へ墜落した、

という話が、酷似しているとして、

久米の事と甚だ相似せり、

と記しているものがある(元禄十五(1702)年『本朝高僧伝』)、という(日本伝奇伝説大辞典)。仏典由来ということは、あり得るかもしれない。

参考文献;
佐藤弘夫『日本人と神』(講談社現代新書)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
守屋俊彦「久米の仙人」(甲南女子大学研究紀要)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:03| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする
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