2021年09月25日
国衆真田氏のサバイバル
丸島和洋『真田四代と信繁』を読む。
本書の扱う「真田家」は、戦国大名・武田家に属した小さな「国衆(くにしゅう)」(在地領主)から出発した。本書では、
幸綱―信綱―昌幸―信之
の真田四代を追う。その意図を、「はじめに」で、
「真田家は、信繁の祖父幸綱の代に武田家に属した国衆であった。ところが、武田家が織田信長に滅ぼされてしまったため、信繁の父昌幸は真田家を保護してくれる戦国大名を求めて諸大名(徳川家康、上杉景勝、北条氏直)のもとを渡り歩き、最終的に豊臣秀吉に従う。
天下人となった豊臣秀吉は、今までと異なり、国衆という自治領主を認めない方針をとった。だから従来の国衆は、①自治権を剝奪されて大名の家臣になるか、②改易されるかに分かれた。真田家は幸運にも、秀吉から独立大名として認められ、江戸時代を通じて大名として存続していくことになる。つまり国衆とは、戦国時代独自の存在なのである。
だから真田氏の歴史を追うことは、戦国時代そのものを考えることにつながる。」
と述べ、
国衆としての真田家を確立した幸綱・信綱、
から、
近世大名としての礎を築く昌幸・信之(信幸)、
までを見ていく、と。それは、
「幸綱の活動がわかるようになる1540年頃から、松代藩祖となった信之が没する1658年までの約100年」
が対象になる。しかし、
「実は武田時代のことしかわかっていない」
という。ようやく近年、
「豊臣秀吉に従うまでの動向があきらかになった」
が、
「豊臣大名となって以降、江戸時代初期の真田家ついては、数えるほどしか研究がない」
中での、本書は、現在進行形での成果、ということになる。
しかし『甲陽軍鑑』で、
(曾禰昌世・三枝昌貞と並んで)信玄の両眼、
と称され、
「信玄自身がその場に行かなくても、自分で見てきたかのように、状況分析の材料を報告すると讃えられている」
一方で、秀吉からは、
表裏比興者(ひょうりひきょうのもの)、
と評され、
裏表のある信頼できない人物、
と見なされてもいた、
真田昌幸、
が一番面白い。信濃の小県(ちいさがた)真田郷の国衆から、豊臣大名として列し、
昌幸の上田領3万8000石、
信幸の沼田領2万7000石、
を領し、さらに、豊臣秀吉の馬廻役となった、
信繁の1万9000石、
が加わるまでになっているのである。
特に武田家滅亡後の、生き残りをかけた、北条、上杉、徳川と、帰属先を変えつつ、対上杉の拠点として、徳川家に上田城を築城させ、対徳川の拠点としての上田城改修を上杉に行わせ、自ら、その城主におさまっていく経緯は、小さな国衆が、大きな戦国大名を手玉に取っているようで、痛快でもある。しかも徳川・北条間の和睦で、もめにもめた真田の沼田領問題では、秀吉の「沼田裁決」で、
沼田領の三分の一が真田領、
沼田領の三分の二が、北条領、
と決したのに、真田領に組み入れられた名胡桃城への北条の出兵が、小田原攻めのきっかけとなるなど、この地域での昌幸は、いわば台風の目になっていた。
昌幸についで面白いのは、やはり、俗に、
幸村、
と呼ばれる、
信繁の、大坂城合戦での活躍だろう。しかし、名にし負う、
真田丸、
は、
「真田丸築城は、信繁の発案ではなく、諸将の談合によって定められ、結果的に信繁が指名された」
とする説があり(北川遺書記)、
「信繁は手勢が少なすぎて守り切れないと北川次郎兵衛に相談し、後藤基次か明石全登の支援を仰ぎたいと申し出た。しかし次郎兵衛は、せっかく『真田が丸』と名付けるのだから、手勢が少なくとも自力で守るべきだと宥めた」
という。それを裏付けて、
「後藤基次が遊軍になったために信繁がはいった」
と記し(大阪御陣覚書)、真田方の軍記でも、
「出丸を受取」
とあり(真武内伝)、にもかかわらず、大阪冬の陣有数の攻防戦として、徳川方に相当の損害を与えたのだから、なかなか興味深い。
(真田丸絵図(浅野文書『諸国古城之図』(広島市立中央図書館蔵)。大阪城惣構(北)から離れた場所に築城された小さな城であり、複数曲輪から構成されている 本書より)
参考文献;
丸島和洋『真田四代と信繁』(平凡社新書)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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