2021年09月27日

助六


「助六」は、浄瑠璃や歌舞伎の登場人物、およびこれを主人公とした作品の通称だが、もともとは、

延宝(1673~81)または宝永(1704~11)頃、大坂千日寺であったという町人萬屋(よろずや)助六と島原の遊女揚巻(あげまき)の心中事件、

で、ただちに、浄瑠璃・歌舞伎に脚色・上演された(広辞苑・日本大百科全書)。

助六は、

侠客、
あるいは、
男伊達、

とされる。

島原の遊女揚巻のもとに通い詰め、親に勘当される。親からもらった縁切金千両で揚巻を請け出し、二人の間にできていた子供を親の門前に捨て子し心中した、

との巷説が伝わる(団十郎の芝居)、という(日本伝奇伝説大辞典)。これを見る限り、伊達とも粋とも関係なく、放蕩息子の成れの果てのようにしか見えない。しかし、

京坂の助六は、江戸の幡随院長兵衛と並び称されるほどの侠客だったという。これが総角(あげまき)という名の京・嶋原の傾城と果たせぬ恋仲になり、大坂の千日寺で心中した、

ともありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A9%E5%85%AD

浅草の米問屋あるいは魚問屋の大店に大捌助六(おおわけすけろく)あるいは戸澤助六(とざわすけろく)、心中ではなく喧嘩で殺された助六の仇を気丈な総角が討ったものだとする説、

等々異説も多く、真相はやぶの中。ただ、芝居では、

江戸の古典歌舞伎を代表する演目のひとつ。「粋」を具現化した洗練された江戸文化の極致として後々まで日本文化に決定的な影響を与えた。歌舞伎宗家市川團十郎家のお家芸である歌舞伎十八番の一つ、

とされる(仝上)。

事件直後、京坂では事実に沿った情話として脚色され、

『大坂千日寺心中』(元禄十三年(1700) 竹本内匠利太夫)、
『助六心中紙子姿』(宝永三年(1706) 安達三郎左衛門)
『萬屋助六二代(かみこ)』(享保二十年(1735) 並木丈助)、
『紙子仕立両面鑑(かみこじたてりょうめんかがみ)』(安永五年(1768) 菅(すが)専助)、

と人形浄瑠璃として上演され、『助六心中紙子姿』は、大阪で、同じ宝永三年(1706)、

『京助六心中』

として、歌舞伎で上演される。この宝永三年を、

十三回忌の上演、

とすると、

助六・揚巻の心中事件は元禄七年(1694)、

と考えられる(日本伝奇伝説大辞典)、としている。

上方での助六像は、

当時の名優坂田藤十郎の夕霧劇における紙衣姿の芸や、「傾城仏の原」の長せりふを取り入れ、和事味の濃い形象として創り上げられた、

とある(仝上)。この素材が江戸に移され、

男伊達としての助六像、

が創成され、

心中情話、

から、

男伊達の敵討もの、

へ変貌する。その嚆矢は、正徳三年(1713)の、

『花館愛護桜(はなやかたあいごのさくら)』

で、

(説経浄瑠璃の)愛護若の世界に揚巻助六心中を組み込んだもの、

で(日本伝奇伝説大辞典)、助六には、二代目市川団十郎が扮した。この助六が、江戸中の評判になり、髪の結い方まで、

助六風、

が流行った、という(仝上)。この段階では、助六は、

大道寺田畑之助、

という名であったが、享保元年(1726)の、

『式例和曾我(しきれいやわらぎそが)』

で、

助六実は曽我五郎時致(ときむね)、

とされ、

曽我もの、

の中に取り込まれることになり、以後踏襲されていく(仝上)。この時の二代目団十郎の紛争は、

紫の鉢巻、蛇の目傘に紙子姿、

で、上方の傾城買いやつしを、江戸風に演じて成功した、という。

助六所縁江戸櫻.jpg

(助六所縁江戸櫻(天保三年三月 江戸市村座の「八代目市川團十郎襲名披露興行」における『助六所縁江戸櫻』。中央に七代目市川團十郎改メ五代目市川海老蔵の花川戸助六、左は五代目岩井半四郎の三浦屋揚巻、右は五代目松本幸四郎の髭の意休) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A9%E5%85%ADより)

助六は日本一の色男、

と川柳に詠まれた、

伊達な風俗、
威勢のいい啖呵、
侠気と雅気、

の助六像は、江戸庶民に愛され続け、助六狂言は幕末まで50回以上上演され、天保三年(1832)七代目団十郎によって、市川家の家の芸とされた、とある(仝上)。この年の、

『助六所縁江戸櫻』(すけろくゆかりのえどざくら)

で、

七代目の倅・八代目市川團十郎の襲名披露興行で、八代目は外郎売で登場、この興行ではじめて「歌舞妓狂言組十八番之内」の表現が使われる。後の「歌舞伎十八番」である、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A9%E5%85%AD

現行助六の扮装は、

紫縮緬の鉢巻きを締め、杏葉(ぎょうよう)牡丹の紋をつけた紅絹(もみ 真赤に無地染めにした薄地の平絹)裏の黒小袖、緋縮緬の襦袢を「一つ前」(一つにまとめて前を合わせること)に着る。一つ印籠、尺八、鮫鞘の脇差を腰につけ、蛇の目傘を持つ。顔は白粉地で、紅でめばりを入れる「剥身隈(むきみぐま)」という隈取り。高さ二尺四寸の大下駄をはき、左小褄を取って出る、

というのが定形だが、当時の十八大通https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%85%AB%E5%A4%A7%E9%80%9Aの一人、蔵前の札差、

大口屋暁雨の吉原通い、

を写したとされる(日本伝奇伝説大辞典)。

大口屋暁雨.jpg

(大口屋暁雨 明治三十年東京歌舞伎座初演の『侠客春雨傘』、九代目市川團十郎の大口屋暁雨 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A9%E5%85%ADより)

大口屋暁雨は、

実在が確認できる人物で、寛延から宝暦(1748~1764)年間に江戸の芝居町や吉原で豪遊して粋を競った18人の通人、いわゆる「十八大通」の一人に数えられている、

とある。二代目團十郎の贔屓筋だったことから、二人は親交を深めるようになり、江戸では次第に「團十郎の助六は大口屋を真似たもの」という噂が広まる。暁雨の方も助六そっくりの出で立ちで吉原に出入りし、「今様(いまよう)助六」などと呼ばれてご満悦だったという、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A9%E5%85%AD)。

なお、「伊達」http://ppnetwork.seesaa.net/article/482098884.html、「いなせ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/414618915.html、については、触れた

参考文献;
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:助六
posted by Toshi at 04:42| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする
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