2021年09月29日
幕府再興の夢
鈴木由美『中先代の乱―北条時行、鎌倉幕府再興の夢』を読む。
「中先代(なかせんだい)」とは、
北条氏を「先代」、
足利氏を「当御代(とうみだい)」、
と呼び、
「その中間にあたる時行を『中先代』と称したと考えられる」
とされる。「時行(ときゆき・ときつら)」とは、最後の執権、
北条高時、
の次男である。
正慶(しょうきょう)二年(元弘三年 1333)五月鎌倉幕府が滅亡時、高時の遺児、
万寿(邦時 九歳)、
亀寿(時行 五歳)、
は、それぞれ伯父(母の兄)五大院宗繁、高時被官諏訪盛高によって逃げのびたが、兄邦時は、宗繁に密告されて新田義貞によって殺された。時行は、二年後、建武二年(1335)六月、諏訪頼重・時継らに奉じられて、信濃で挙兵、総勢五万もの大軍となり、足利一族の護鎌倉将軍府の軍を、武蔵女影原(おなかげはら)、小手指ヶ原(こてさしがはら)、武蔵国府で撃破、武蔵井出沢(いでのさわ)で、足利直義を破ると、七月、鎌倉に攻め入った。
中先代の乱、
である。
建武政権期(鎌倉幕府滅亡の正慶二年(元弘三年 1333年)5月22日から後醍醐天皇が吉野に南朝を開いた延元元年(建武三年 1336年)12月まで)に各地で反乱がおきたが、特に足利尊氏が建武政権離脱までに起きた反乱は全国にわたり、全26件、うち北条与党の反乱は半部を占める。時行の鎌倉攻めのように、大きな勢力となった背景には、
「全国的な規模で建武政権に対しての不満が存在していた」
ためであり、
「地方の武士がその地域に縁の薄い北条氏を担いででも反乱を起こしたのは、現状を打破するためであり、それだけ現状が耐え難かったのであろう。」
だから「中先代の乱」では、あれほどの大勢力に膨れ上がった。しかし、僅か20日間ほどで、東上した尊氏に敗れてしまう。それなのに、「中先代」などと、
「なぜ鎌倉幕府の執権『先代』北条氏と室町幕府を開いた『当御代』足利氏と同列に置かれたのだろうか。」
著者は、こうその理由を挙げる。
「源頼朝の幕府開創以来150年にわたって武家政権が置かれた鎌倉という土地は、鎌倉幕府滅亡後も、足利氏を含めた武士にとって特別なものであった。それはこの法律の制定をもって室町幕府の開創といわれている『建武式目』に、鎌倉は、『武家にとっては、もっとも縁起が良い土地というべきである』と謳われていることからも明らかである。時行が『先代』の北条氏・『当御代』の足利氏と同質と見なされたのは、時行が短期間であっても源頼朝以来、武家政権が置かれていた鎌倉の地を占領することができたからであろう。」
と。しかし、この理由づけには、ちょっと納得できない。
総勢五万余で東下した足利尊氏は、19日には鎌倉を奪還し、時行は、
廿日先代、
と言われたという。その後、尊氏は後醍醐天皇の帰京命令に従わず、12月に、両者は決裂する。尊氏は、持明院統の光厳上皇の院宣を手に入れ、結果として、
武家の棟梁、
として、建武政権への不満を吸収していくことになる。
「尊氏も、中先代の乱を鎮圧した実力で鎌倉を占領したことにより、周囲が尊氏を武家政権の首長として認識し、『将軍家』とよばれることになった」
し、それが、
「足利氏が北条氏と同様の武家政権の指導者、『先代』の次の『当御代』と呼ばれるようになった契機も同じであっただろう。」
と著者は言うが、そうだろうか。「当御代」と呼んでいるのは、ニュートラルな言い方ではなく、その表現からみて、室町幕府側から見ている。その御代から見て、北条の「先代」だけにしないのは、意味があるのではないか。ただ鎌倉占拠だけではなく、尊氏の鎌倉攻めが、建武政権から離脱する重大な契機になったからではないか。その意味で、「当代」(当御代と敬っている)の「室町政権」当事者から見て、
中先代、
と敢えて言ったのではないか、という気がしてならない。
ところで、その時行は、延元二年(建武四年、1337年)、義良親王を奉じて奥州から上洛する北畠顕家軍に参加している。つまり、南朝方に加わっている。この理屈がよく分からないが、時行はまだ九歳、周囲で支える者たちの思いなのだろう。それは、
足利憎し、
である。その理屈を、
「鎌倉時代の足利氏は、将軍に仕える御家人であった。(中略)足利氏は北条氏の家来ではないが、北条氏の側には、得宗が足利氏の嫡子の烏帽子親となって名前の一字を与え、北条氏の娘を嫁がせるなどして、足利氏を優遇してきたという意識があったのではないか。
事実、尊氏の初名『高氏』の『高』は得宗北条高時から名の一字を賜ったものであり、……彼の妻も執権赤橋守時の妹登子であった。その足利氏が自家を裏切ったことこそが、時行や北条一族にとって何よりもゆるせなかったのではないだろうか。
直接鎌倉を攻め、幕府を滅ぼした新田義貞に対しても、後醍醐天皇の命令に従ったのだから憤りは持たなかった、と述べたように、この後、時行は新田義貞の子義興・義宗と行動をともにしている。」
とある。しかし、「北条」も「足利」も、御家人としては同列である。足利は北条の家臣ではない。
「譜代の家臣であれば主人とともに死ぬもの」
という武家社会の通念は当てはまらないのではないか。しかし、時行は、南朝方として戦いつづけ、正平七年(文和元年 1352年)捉えられ、処刑される。享年25、幕府滅亡後20年、時行と行動を共にしてきた、
長崎駿河四郎、
工藤二郎、
得宗被官の二人も共に処刑された。
「一族再興のための戦いにその大部分を費やした生涯は、鎌倉幕府が滅びてから20年を迎える日の二日前に閉じた」
とある。
参考文献;
鈴木由美『中先代の乱―北条時行、鎌倉幕府再興の夢』(中公新書)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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