2021年10月04日

骨肉の争い


亀田俊和『観応の擾乱―室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』を読む。

観応の擾乱.jpg


「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」は、

「室町幕府初代将軍足利尊氏および執事高師直と、尊氏弟で幕政を主導していた弟直義(ただよし)が対立し、初期室町幕府が分裂して戦った全国規模の戦乱」

である。この内戦は、

「観応元年(1350)10月、尊氏が不仲であった実子足垣が直冬(ただふゆ)を討伐するために九州に向けて出陣した隙を突いて、直冬の叔父にして養父でもあった直義が京都を脱出したことから始まる」

とされ、直義軍が圧勝し、観応二年(北朝正平五年 1351)二月、師直一族が惨殺されたことで、「観応の擾乱」の

第一幕、

が終わる。両者の講和は、五ヵ月で破綻、同七月末、直義が京都を脱出して、北陸へ向かったことで、

第二幕、

が始まり、翌正平七年(観応三年 1352)二月に直義が死去したことで、狭義の「観応の擾乱」は集結する。しかし、この後も、文和三年(1353)五月、直冬が京都を目指し、翌四年三月、尊氏は直冬を撃退した。

この間も、観応二年(1351)十月の、正平一統(しょうへいいっとう)と呼ぶ、南朝に統一された僅か四ヶ月を除き、南北朝の争いは続いているし、直冬撃退後も、たとえば、尊氏死後、

「康安元年(1361)十二月、南朝は四度目の京都奪還を果たす。だがこのときも南朝軍の主力となったのは失脚した前幕府執事細川清氏であったし、占領もごく短期間で終わった。そしてこれが最後の入京となった。観応の擾乱のような、幕府の存亡をかける規模の戦いは終息した」

とある。この後、40年も南北朝内乱が続くが、それほど戦乱を長引かせたのは、直義が一時南朝方についたように、

「幕府では、権力抗争に敗北すると南朝方に転じる武将が続出」

したことにあり、直義は、その先例になった、との指摘は重要だろう。

足利尊氏.jpg

(足利尊氏 絹本著色伝足利尊氏像(浄土寺蔵) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%B0%8A%E6%B0%8Fより)

南北朝の対立は、措くとして、この「観応の擾乱」は、正直、

わけが分からない内乱、

である。それぞれ中核となる尊氏派、直義派の武将がいるが、多くは、彼方になびき此方になびき、定まらない。両者の対立すら、その理由がはっきり分からない。著者は、

実に奇怪な内乱、

と呼ぶ。

足利直義.jpg

(足利直義 神護寺三像の一つ、伝源頼朝像 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%9B%B4%E7%BE%A9より)

「四条畷の戦いで難敵楠木正行に勝利し、室町幕府の覇権確立に絶大な貢献を果たした執事高師直が、わずか一年半後に執事を罷免されて失脚する。だがその直後に数万騎の軍勢を率いて主君の足利尊氏邸を包囲し、逆に政敵の三条殿足利直義を引退に追い込む。
 ところがその一年あまり後に、直義が宿敵の南朝と手を結ぶという奇策に出る。今度は尊氏―師直を裏切って直義に寝返る武将が続出、尊氏軍は敗北して高一族は誅殺される。
 だがそのわずか五ヵ月後には何もしていないのに直義が失脚して北陸から関東へ没落し、今度は直義に造反して尊氏に帰参する武将が相次いで、尊氏が勝利する。そして、その後も南朝(主力は旧直義派)との激戦がしばらくはほぼ毎年繰り返されるのである。
 短期間で形勢が極端に変動し、地滑り的な離合集散が続く印象である。このような戦乱は、日本史上でも類を見ないのではないか。」

高師直.JPG

(高師直 『守屋家旧蔵本騎馬武者像』(高師詮説もある) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B8%AB%E7%9B%B4より)

 この離合集散はなぜ起きるのか。両者の支持層には、

「明確な……違いなど存在せず、両派は基本的に同質であった。否、そんな党派対立など存在しなかった。明確な派閥が形成されはじめるのは、どんなに早く見積もっても貞和四年(1348)正月の四条畷の戦い以降であった。そして一部の武将を除いて、その構成も最後まで流動的であった」

というのが著者の見方である。では、何が原因か。

足利 直冬.jpg

(足利直冬(歌川貞秀『英雄百首』) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%9B%B4%E5%86%ACより)

「そもそも観応の擾乱の直接的はじまりは、尊氏と師直が九州の直冬を討伐するために出陣したことであった。史料に乏しい難点はあるが、尊氏の実子で有能であるにもかかわらず、なぜか異常に忌み嫌って排除し続ける尊氏に反発が集まった事情は確かにあったと思われる。畠山国清が直義派に転じたのも、その要素が大きいと推定している……。そして、そんな尊氏の意を承けて、嫡子義詮(よしあきら)を次期将軍にするために全力で献身していた師直に対して批判が集中したのではないか。」

と著者は述べる。確かに、「観応の擾乱」は、

直冬にはじまり、直冬に終わった、

ところはある。しかし、おのれの利害にならぬことで、各地の武将が、おのれの戦力を投入するだろうか。そうすることが、何らかの利害につながるからではないのか。むしろ、原因は、

「尊氏―師直が行使する恩賞充行(あておこない)や守護職補任から漏れ、不満を抱いた武士たちが三条殿直義に接近しつつあるところに、足利直冬の処遇問題が複雑に絡んで勃発した」

とする方がすっきりする。それは、建武の中興が、武士たちの反発を招いたのと同じであり、後に、直義が失脚するのも、同じ轍である。しかし、尊氏が、

「私の恩恵で立身を遂げ、分国を賜って大勢の従者を持つ者たち」

が、自分の敵であると認識していたということは、尊氏によって利益を得ていても猶不満を抱いていたものが、対立の勝馬に乗って、

「そもそも擾乱第一幕で直義派に所属した守護たちは、桃井直常・石塔頼房・上杉憲顕などを除いて、大半が直義優勢が明確になってからその旗幟を鮮明にした者ばかりである。」

とあるように、さらなる恩賞にあずからんと、右に左にと雪崩を打ったということのように見える。

切取強盗武士の習い、

とはよく言ったものである。

足利義詮.jpg

(足利義詮 神護寺三像より伝藤原光能像 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E8%A9%AEより)

参考文献;
亀田俊和『観応の擾乱―室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』(中公新書)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:48| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください