2021年10月13日

常陸坊海尊


「常陸坊海尊」は、

海存、

と当てたり(日本伝奇伝説大辞典)、

快賢、
荒尊、

とするものもある(世界大百科事典)。秋元松代の戯曲『常陸坊海尊』でも知られる、源義経の家臣である。

常陸坊海尊(源義経公東下り絵巻).jpg

(常陸坊海尊(源義経公東下り絵巻) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9D%8A%E6%B5%B7%E5%B0%8Aより)


『源平盛衰記』巻四十二、延慶本『平家物語』第六末にその名が見え、前者ではもと叡山の僧であったとし、『義経記』では、もと園城寺の僧であったとする。義経の都落ちに同道して弁慶とともに大物(だいもつ)の浦で活躍し、衣川での義経の最期には、朝から物詣でに出て帰らず居合わせなかった、

とされる(仝上)が、比較的信頼のおける『吾妻鏡』には登場せず、確かな史料が存在しない。

『義経記』には、「頼朝謀反により義経奥州より出で給ふ事」の中で、

御曹司の郎党には西塔の武蔵坊、又園城寺法師の、尋ねて参りたる常陸坊、伊勢三郎、佐藤三郎継信、同四郎忠信これらを先として三百騎馬の腹筋馳せ切り、

とあるのが初見とされhttp://www.st.rim.or.jp/~success/kaison.html、頼朝との兄弟対面よりも前には、義経の郎党となっていたようだし、『源平盛衰記』の屋島の合戦の記事には、

武蔵坊・常陸坊、旧山法師にて究竟の長刀の上手にて、

と記され、『義経記』では、大物の浦で、海尊と弁慶は褐の直垂を纏い、弁慶はその上に黒革縅、海尊は黒糸縅の鎧を身につけ、小舟を駆って、敵船に突入、

するという活躍をしているhttps://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/7793ので、その武勇は確かだったと考えられるが、『義経記』では、たとえば、文治三年(1187)、義経一同が関所で関守に疑われ、弁慶の機転で何とか切り抜けることに成功するシーンが有名だが、常陸坊は、

先に出でたりけるが、後を顧みければ、判官と武蔵坊は未だ関の縁にぞ居給へり、

と、さっさと関所を出てしまっている等々、二、三ヶ所で、

誰よりも先に逃げようとする、

と記され、この時点で、

逃げ上手、
生き上手、

としての海尊像がすでに成立していた、とされる(仝上)。茨城の民話では、衣川の合戦に際し、

十一人の近臣と戦に加わらず近くの山寺に行っていた、

と伝わり、この件が、

義経一行が難題に直面した際に、常陸坊はいち早く姿を消す(常陸坊を初めとして残り十一人の者ども、今朝より近きあたりの山寺を拝みに出でけるが、そのまま帰らずして失せりにけり)とあるように、肝心な時には何時もどこかに身を隠してしまう、卑怯者といわれる所以、

としているhttps://nyorokolog.hatenablog.com/entry/2019/09/29/214838

衣川合戦を生き延びた「海尊」は、

仙人となり、あるいは人魚の肉などを食して不老長寿となり、400年位生きていた、

とも伝えられ(朝日日本歴史人物事典)、

富士山に入り、飴のようなものを食べて不死を得た話(柳田国男「東北文学の研究」)、
枸杞を常食したため長寿となった(林羅山『本朝神社考』)、

等々ともされる。『本朝神社考』(林羅山)には、

江戸時代初期に残夢という老人が、源平合戦や義経を見てきたように語っていたのを人々が海尊だと信じていた、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9D%8A%E6%B5%B7%E5%B0%8Aし、天和三年(1683)に江戸から東海道を旅したという大森固庵らによる紀行『千草日記』では、3月14日の条に三保の松原に現われた残夢について綴られているhttps://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/7793

『義経記』の注釈書である『義経記評判』の頭注「ひたち坊」に姿を見せる残夢は、「義経は醜男、弁慶は美僧」などと、それまでの言い伝えとは違う義経主従の人相を語ったという。さらに自分は海尊だと名乗り、義経の最期の地となった衣川を訪れた際に、老翁から貰った赤い果物を食して長生になったと告げた、

とあり(仝上)、

『清悦物語』には、常陸坊海尊として、義経の従者であった清悦とともに登場する。海尊は清悦ら仲間4人で衣川に行き、山伏から「にんかん」という赤魚を振る舞われ、長生を得た、

とある(仝上)。

生存説は東北地方中心に多く、たとえば、大杉神社(茨城県稲敷市)では、

文治年間には巨体、紫髭、碧眼、鼻高という容貌の常陸坊海存(海尊)が登場し、大杉大明神の御神徳によって数々の奇跡を示したことから、海存は大杉大明神の眷属で、天狗であるとの信仰へと発展いたしました。当初は御眷属としては烏天狗のみとしておりましたが、後に陰陽一対として鼻高天狗、烏天狗の両天狗を御眷属とすることとなりました、

と、天狗になり、神と同一視されているhttps://nyorokolog.hatenablog.com/entry/2019/09/29/214838

「常陸坊海尊」については、別に、遍照寺(真岡市)の古寺誌に、

文治中、藤原泰衡追悼の軍功により賞与を仝地に賜り、故に奥州伊達の地に移る。これより先、常陸坊海尊なる者藤原秀衡の命を受け源義経の子、経若を懐にして中村に来り、念西に託す。念西、伊達に移るに由り常陸冠者為宗を伝とし中村家を為村に譲り、為宗我が子とし成人の後、中村を続かしむ。後、中村蔵人義宗と言ふ。又左衛門尉朝定と改む、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9D%8A%E6%B5%B7%E5%B0%8A、義経の子を託されたとされる。託された、念西とは、

平治年間(1159~60年)に中村城に入った中村小太郎朝宗の子・宗村を指す。宗村は剃髪して、念西(中村常陸入道念西)と名乗ったのだ。文治中の奥州合戦の軍功により奥州伊達の地を賜り、その地に移り、奥州伊達氏の祖となった。その際に念西は、子の為宗に中村家を譲った。義経の子・経若(のちに中村蔵人義宗、さらに左衛門尉朝定と改名)は、この為宗の子として成人し、家を譲られ、中村城主となったという、

とあるhttps://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/7793。ただ、『義経記』は、

義経の妻と3歳の男子と、合戦の7日前に生まれた女子の3人、

を、傅役の十郎権頭兼房が刺し殺し、義経の後を追ったとあり、『吾妻鏡』には、

義経の22歳の妻と4歳の女子が、義経に殉じた、

と記されている(仝上)。

柳田国男は、海尊について、

「義経記成長の事情を窺い知る端緒として、最初に我々の心づく特色の一つは、いよいよ泰衡が背き和泉夫婦が忠死を遂げて、主従わずかに一三人で、寄手の三万余騎と激戦するほどの大切な日に、あいにくその朝から近きあたりの山寺を拝みにでて籠城の間に合わず、そのまま還って来なかった者が十一人あったという点である。その十一人の大部分は名が伝わらぬが、ただ一人だけ知れているのは、常陸坊海尊であった。それがその通りの歴史であったとすれば、是非もないが、人の口からだんだん大きくなった物語としては、かような挿話は見たところ別に必要もないので、もし必ずそう語るべきであったとすれば、別に隠れた理由が何かあったはずである」

と書き(「東北文学の研究」)、足利時代の下半期に、

常陸坊海尊が、まだ生きているという風説が諸国、

にあり、

この噂が一箇所一口ではないために、かえって始末が悪い、

と、義経記の海尊像が一人歩きを始めた、と記しているhttp://www.st.rim.or.jp/~success/kaison.html

参考文献;
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:常陸坊海尊
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