2021年10月22日
兵略あっての忍び
平山優『戦国の忍び』を読む。
本書は、史料に出てくるかぎりで、
「Ninja」でも、「忍者」でもない、戦国の「忍の者」(本書では、「忍び」で統一)の実像を可能な限り追い駆けてみたい」
とし、
「Ninja」や「忍者」が駆使する、忍術や武器については、まったく言及していない。当時の史料には、まったく登場せず、検討の仕様がないからである、
としている(はじめに)。その意味では、実戦の中で、どんな使われ方をし、どんな戦い方をしているかに中心がある。
「忍び」の類をまとめたものは江戸時代以降で、代表的なものは、『武家名目抄(ぶけみょうもくしょう)』(1806)と、江戸時代も後期になってからである。そこでは、
他の項目と同じく、忍びについて、様々な文献をもとに考察が記されている、
が、そこでは、
忍目付、
忍物見 又称芝見、カマリ物見、
物聞(ものきき) 又称聞物役、耳聞、外聞聞次、
遠聞(とおぎき)、
訴入、
忍者 又称間者、諜者、
透波(すっぱ)、
等々がある。「忍者」については、こう説明している。
按ずるに、忍者はいはゆる間諜なり、故に或いは間者といひ、又諜者とよぶ、さて其役する所は、他邦に潜行して敵の形勢を察し、或いは仮に敵中に随従して間隙を窺ひ、其余敵城に入て火を放ち、又刺客となりて人を殺すなとやうの事、大かたこの忍かいたす所なり、物聞、忍目付なといふも多くはこれか所役の一端なるへし、もとより正しき識掌にあらされは、其人のしな定まれることもなし、庶士の列なるもあり、足軽同心又は乱波、透波の者もありしとみゆ、京師に近き所にては、伊賀国又は江洲甲賀の地は、地侍多き所なりけれは、応仁以後には各党を立てて、日夜戦争をし、竄賊、強盗をもなせしより、おのつから間諜の術に長するもの多くいてきしかは、大名諸家、彼地侍をやしない置て、忍の役に従はしむる事の常となりてより、伊賀者・甲賀者とよはるるもの諸国にひろこりぬ、これ鉄炮組には多く、根来者を用ふるたくひなり、
とある。戦国時代が終わってから二百年も経っての見解なので、相当に割り引く必要はあるが、本書は、史料に登る用語を丹念に追いかけていく。ただ、
草、
草調儀、
伏、
伏勢、
伏調儀、
野臥、
かまり、
等々を史料を基に追って行くのはいいが、果たして、たとえば、
草、
と
かまり、
とを厳密に区別しているのか、それてもかなり雑な使い方なのかは、同一史料で、両者を厳密に比較していないので、分からない。「忍」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/416745079.html)で触れたことだが、
乱波(らっぱ)
透波(出波)(すっぱ)
突波(とっぱ)
と呼ばれたり、
草
とか
伏
とか
かまり
と呼ばれたりするが、確か、三田村鳶魚が、
「乱波・出波は、少人数、数人あるいは一人でやる場合と、集団で用いる場合は、少し様子がちがう。普通の忍びは、戦時でないときに使うのだが、戦時は『覆』といって、これはだいぶ人数が多い。多ければ千人もに千人もになるし、少なくとも二三百人ぐらいはある。」
と言っていた。山蔭に隠して、不意を襲うので、「むらかまり」「里かまり」「すてかまり」等々と呼ぶという。少人数を隠す場合、「伏」とも呼ぶ。「草」とも言うなど、
乱波(らっぱ)、
透波(出波)(すっぱ)、
突波(とっぱ)、
は、どちらかというと、
忍び、
がその行動と同時に、その人を指すのに対して、
草、
草調儀、
伏、
伏勢、
伏調儀、
野臥、
かまり、
は、作戦行動(兵略)を指しているように思われる。たとえば、草の活動について、
奥州の軍(いくさ)言葉に草調儀などがある。草調儀とは、自分の領地から多領に忍びに軍勢を派遣することをいう。その軍勢の多少により、一の草、二の草、三の草がある。一の草である歩兵を、敵城の近所に夜のうちに忍ばせることを「草を入れる」という。それから良い場所を見つけて、隠れていることを「草に臥す」という。夜が明けたら、往来に出る者を一の草で討ち取ることを「草を起こす」という。敵地の者が草の侵入を知り、一の草を討とうとして、逃げるところを追いかけたならば、二、三の草が立ち上がって戦う。また、自分の領地に草が入ったことを知ったならば、人数を遣わして、二、三の草がいるところを遮り、残った人数で一の草を捜して討ち取る、
とある(政宗記)。これはもうゲリラ戦といっていい。
それにしても、折口信夫が、
透波・乱波は諸国を遍歴した盗人で、一部は戦国大名や豪族の傭兵となり、腕貸しを行った。透波・乱波は団体的なもので、親分・子分の関係がある。一方、それから落伍して、単独となった者を、すりと呼んだ。山伏も法力によって、戦国大名などに仕えることもあった。山伏の中には逃亡者・落伍者・亡命者などが交じり、武力を持つ者もいて、この点でも、透波・乱波と近い存在である(ごろつきの話)、
と書いたり、
これ常に忍の役するものの名称にして一種の賤人なり。ただ忍(しのび)とのみよべる中には庶士の内より役せらるるもあれど、透波とよばるる種類は大かた野武士強盗などの中よりよび出されて扶持せらるるものなり。されば間者(間諜)かまり夜討などには殊に便あるが故に、戦国のならひ、大名諸家何れもこれを養置しとみゆ。…(透波、乱波)の名儀は当時の諺に動静ととのはず首尾符合はせざるものをすつはといひ、事の騒がしく穏やかならぬをらつはといひしより起これるなるべし(武家名目抄)
と書いたりしたために、「忍び」は、通常の侍とは別の、
盗人、
等々の人間を雇ったとする説に偏り過ぎでいないか。
そもそもが、足軽自体が、飢饉と戦乱の中、稼ぎに出てきた農民なのであることは、「足軽」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/462895514.html)で触れたし、その背景については、藤木久志『雑兵たちの戦場』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/463652420.html)でも触れた。いわゆる、
乱取り、
がある。その中心になる、
雑兵、
は、
身分の低い兵卒をいう。戦国大名の軍隊は、かりに百人の兵士がいても、騎馬姿の武士はせいぜい十人足らずであった。あとの九十人余りは雑兵(ぞうひょう)と呼んで、次の三種類の人々からなっていた。
①武士に奉公して、悴者(かせもの)とか若党(わかとう)・足軽などと呼ばれる、主人と共に戦う侍。
②武士の下で、中間(ちゅうげん)・小者(こもの)・荒子(あらしこ)などと呼ばれる、戦場で主人を補(たす)けて馬を引き槍を持つ下人(げにん)。
③夫(ぶ)・夫丸(ぶまる)などと呼ばれる、村々から駆り出されて物を運ぶ百姓(人夫)たちである、
とされ(藤木久志『雑兵たちの戦場』)、雑兵の中には、
侍(若党、悴者は名字を持つ)
と
武家の奉公人(下人)、
と
動員された百姓、
が混在している。さらに、
草・夜わざ、かようの義は、悪党その外、はしり立つもの、
といわれる、いわゆる、
スッパ、ラッパ、
もまた雑兵に入る。この者たちは、いずれも、
戦場でどうにか食いつないでいた、
のである(仝上)。となると、なにも、
盗人、
と、
乱取りする雑兵、
との区別はつかない。そういう時代なのではないか、戦国時代は。
それともう一つ、
城乗っ取り、
を、忍びの専売特許にし過ぎる。それは、平和の時代、軍のなかった江戸時代の常識に左右され過ぎているからではないか。現に、『太平記』には、笠置山に三千余で籠城する後醍醐天皇の城を、
備中国住人陶山字藤三郎、小宮山次郎以下五十余人、
が、夜の城に潜入し、
ここの役所に火を懸けては、かしこに時の声を揚げ、かしこ時を作っては、ここの櫓に火を懸くる。四方八方走り廻って、その勢山中に充満したるやうに聞こえければ、陣々を堅めたる官軍ども、城中に敵大勢攻め入つたりと心得て、物具を脱ぎ捨て、弓矢をかなぐり捨て、崖、堀と云はず、倒れふためいてぞ落ち行ける、
と、落城させている。つまりは、兵略なのであって、その手先の人々の才覚・能力を嵩上げして考えるべきではない。
あるいは、同じく『太平記』に、
結城(駿河守)が若党に、物部郡司とて世に勝れたる兵あり。これに手番(てつか)ふ者三人、かねてより、敵もし夜討せば、敵の引つ帰さんに紛れて赤坂城へ入り、和田(正氏)、楠(正儀)に打ち違へて死ぬるか、しからずんば城に火を懸けて焼き落とすか、
と待ち構えていた。四人は、予想通り和田が兵三百で夜討したのに紛れて、まんまと赤坂城に入り込む。しかし、夜討の後は、
立ち勝(すぐ)り居勝(いすぐ)り、
といって、
陣中に敵が侵入したときに、前もって決めておいた合図に従って立ったり座ったりして、行動の一致しない敵を見つけ出す方法、
があり、これによって四人は捕らえられる。この潜入者炙り出し法も、著者は、「忍び」の手法に挙げていたが、敵の夜襲も、それに紛れ込むのも、別に特別「しのび」の専売特許ではない。あくまで、兵法、兵略の一つに過ぎない。
情報収集としても、島原一揆の折、原城に忍び込んだ伊賀者は、相手の言葉が分からず、何の役にも立たず、発見されて、這う這うの体で、逃げてきている。戦国期、全国に敵味方で散らばった「しのび」仲間同士(たとえば伊賀者同士)なら使えた情報交換が役に立たなかった、ということでもあったらしいが、結局、「しのび」も、
兵略、
の一つに過ぎない。兵略なしに、
忍び、
も、
忍び作戦、
もないのではないか。つまり、当たり前のことだが、
忍びあっての兵略、
ではなく、
兵略あっての忍び、
なのである。
「忍」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/416745079.html)については、触れた。また、忍びの「かまり」「くさ」等の活動については、盛本昌広『境界争いと戦国諜報戦』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/396352544.html)で触れた。また、和田裕弘『天正伊賀の乱』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/483008903.html)で、伊賀衆の末路については触れた。
参考文献;
平山優『戦国の忍び』(角川新書)
三田村鳶魚『江戸の盗賊 鳶魚江戸ばなし』(Kindle版)
笹間良作『日本戦陣作法事典』(柏書房)
盛本昌広『境界争いと戦国諜報戦』(歴史新書y)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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