「こまねく」は、
拱く、
と当てる。
こまぬくの音変化、
とされ、
左右の手を胸の前で組み合わせる、
意から、
腕を組む、
意へ広がり、転じて、
手をこまねく、
というように、
何もしないで見ている、
傍観する、
意で使われる(広辞苑)。類聚名義抄(11~12世紀)には、
拱、コマヌク、ウダク、イダク、タムダク、
とある。「いだく」は、
抱く、
と当て、
子を抱きつつ下(お)り乗りす(土佐日記)、
と使うが、
うだくの転、
とあり(岩波古語辞典・大言海)、「うだく」は、
熱き胴の柱をうだかして立つ(霊異記)、
と、
むだくの転。ムは身の古形、タクは腕を働かして何かをする意。従って、ムダクは相手の体を両手で抱えて締める意。ウダクは平安時代の漢文訓読体に多くの例があるが、平安女流文学ではイダクだけが使われた、その後、ウダクは亡びてイダクだけが使われるようになった(岩波古語辞典)、
あるいは、
腕纏(ま)くの約と云ふ、転じて、ムダク、イダクともなる(大言海)、
とある(岩波古語辞典)。「むだく」は、古く、万葉集に、
上つ毛野(かみつけ)の安蘇(あそ)の真麻(まそ)群(むら)かき抱(むだ)き寝(ぬ)れどあかぬをあどか我がせむ、
と詠われる。「むだく」は、
拱く、
と当て、
たうだくの転、
であり、
拱く、
手抱く、
と当て、
タはテ(手)の古形。ムダクは身抱くが原義、抱く意、
であり(岩波古語辞典)、
手にて身を抱く、
意である(大言海)。
こう見ると、「いだく」と同様「うだく」も「むだく」も、「抱く」意である。「こまねく」と「抱く」はほぼ同義に使われていたように思える。ただ、「腕組み」は、「たむだく」、つまり手で、「我が身を抱く」という意味に広げられなくもないが。
「こまねく」は、現存する中国最古の字書『説文解字(100年頃)』には、
拱、斂手(手をおさむる)也、
礼記・玉藻篇「垂拱」疏には、
沓(かさぬる)手也、身俯則宜手沓而下垂也、
とあり(大言海)、
拱の字の義(両手をそろえて組むこと)に因りて作れる訓語にて、組貫(くみぬ)くの音轉なるべしと云ふ(蹴(く)ゆ、こゆ。圍(かく)む、かこむ。隈床(くまど)、くみど。籠(かたま)、かたみ)、細取(こまどり)と云ふ語も、組取(くみとり)の転なるべく、木舞(こまひ)も、組結(くみゆひ)の約なるべし、
とする(大言海)ように、「こまねく」は、もともと、
子路拱而立(論語)、
と、
両手の指を組み合わせて敬礼する
意であり、
拱手、
と言えば、
遭先生于道、正立拱手(曲禮)、
と、
両手の指を合わせてこまぬく、人を敬う礼、
であり(字源)、
中国で敬礼の一つ。両手を組み合わせて胸元で上下する、
とあり(広辞苑)、
中国、朝鮮、ベトナム、日本の沖縄地方に残る伝統的な礼儀作法で、もとは「揖(ゆう)」とも呼ばれた。まず左右の人差し指、中指、薬指、小指の4本の指をそろえ、一方の掌をもう一方の手の甲にあてたり、手を折りたたむ。手のひらを自身の身体の内側に向け、左右の親指を合わせ、両手を合わせることで敬意を表す。一般的には、男性は左手で右手を包むようにするが、女性は逆の所作となる。葬儀のような凶事の場合は左右が逆になる、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%B1%E6%89%8B)。
(8世紀頃に呉道玄が描いた拱手する孔子像 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%B1%E6%89%8Bより)
ただ、「こまねく」には、わが国で、
天皇授璽綬禅位、……古人大兄、避座逡巡、拱手辞而曰(孝徳即位前紀)、
とあるのを、
両手を腹の上にて組合す、敬礼なり、
とする解釈もある(大言海)。
「こまねく」は、また、
斂手(れんしゅ)、
ともいい、
手を斂(をさ)む、
といい、
世祖曰、貴戚且斂手以避二鮑(後漢書・鮑永傳)、
と、
手を出さず、おそれつつしみて、ほしいままにせず、
の意があり、この意味と関わらせると、「拱手」にも、
天水隴西、拱手自服(後漢書・公孫述傳)、
と、
手を組みゐて、何事もせず、
の意で使われるようになる意味も分かる気がする(字源)。
このためか、「手をこまねく」にも、
両手の指を胸の前で組み合わせて敬礼する中国で行なわれた挨拶の方法、
の意もあるが、日葡辞書(1603~04)には、
腕組みをする、
意が載るので、古くから、
腕組みをする、
意でも使われ、
膝を組み、手を叉(コマヌ)き、忙然として居たりける(「椿説弓張月(1807~11)」)、
と、腕組みしながら、
深く考えこむ、深く考えに沈む、
意でも使われるが、
いつれも手をこまぬき棹だちになりて(「仮名草子・智恵鑑(1660)」)、
と、
手だしをせずにいる、何もしないで見ている、
と、
手をつかねる、
意でも使われてきた(精選版日本国語大辞典)。最近、「手をこまねく」が、
何もせずに傍観している、
意よりも、
準備して待ち構える、
意で解釈される傾向にあるというが、「手をこまぬく」が、
深く考えこむ、
意でも使われてきた経緯を見ると、別段驚くほどの変化ではない気がする。
なお、禅宗での礼法に、
叉手(しゃしゅ・さしゅ)、
という、
左手のこぶしを胸に会うて、右手でおおう(兵藤裕己校注『太平記』)、
とか、
胸の前で、十指と二つの掌を合わせること(デジタル大辞泉・広辞苑)、
といわれるもので、
衆家きたりてたちつらなれば叉手して揖(いっ)すべし(「正法眼蔵(1231~53)」)、
という礼法で、これも、一種の
拱手、
とされる。広く、東アジアで、
貴人をはじめ神仏などへの敬意の所作であり、立った姿勢で両手を胸のまえで重ねるようにして表す、
というもの(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%89%E6%89%8B)の系列かと思われる。面白いことに、これにも、
両手を胸の前で重ね合わせる、
意から、
侍者は住持のあとに叉手して行ぞ(「百丈清規抄(1462)」)、
と、
手をこまぬくこと、腕をくむこと、
の意となり、転じて、
手を束(つか)ねて何もしない、
意でも使われる(精選版日本国語大辞典)。「叉手」は、
叉首、
ともいい、「叉手」に準えて、
切妻造の屋根の左右の端に、合掌型に交叉して組んだもの、
をもいう(広辞苑・大言海)。なお、
さすまた(刺股・指叉)、
の「さす」もこの「さす」である(仝上)。「叉手」の「叉」は、
あざふ、
と訓ます。
アザ(交)アフ(合)の約、
とある。
組み合わせる、交叉させる、
意である(岩波古語辞典)。
「拱」(漢音キョウ、呉音ク)は、
会意兼形声。共は、両手をそろえて物をささげるさま。拱は「手+音符共」で、両手をそろえて組むこと。共が「そろえる、いっしょ」の意に転用されたため、拱の字が原義をあらわした、
とある(漢字源)。
(「拱」 説文解字・漢 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%8B%B1より)
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95