澆季


兵藤裕己校注『太平記』を読む。

太平記①(岩波文庫).jpg


本書は、多くの出版されている『太平記』の底本となっている、江戸時代に版行された、いわゆる、

流布本、

ではなく、龍安寺の塔頭西源院に伝わった、

西源院本(せいげんいんぼん)、

を底本としており、古態を伝えるとされる、

玄玖本(げんきゅうぼん)、
神田本、

などの古本系の一つとされる。

この三種の本は、それぞれ旧いかたちを伝えるいっぽうで、独自の改変箇所や誤写・誤脱もあり、古態性という点では、いわば三すくみのような関係にある、

とされる(第四巻・校注者解説)。その中で、「西源院本」は、

応永年間(室町初期)に書写され、大永・天文年間(室町後期)に転写された『太平記』の古写本、

であり、

複数の本文を合成した未整理な(一種の「草案」本のような)箇所が多く、しかも全26巻本しか現存しない、

神田本や、

古本系の本文としては後出性の著しい南部本に近似する箇所の多い、

玄玖本に比べ、

古本系諸本の中で、ときに孤立した本文を持つ。その孤立した本文には西源院本の改変箇所もあるが、しかしその独自本文に、『太平記』の古態をうかがわせる箇所が少なくない、

として、

南北朝・室町期の『太平記』を代表しうるテキスト、

と位置づけている(仝上)。各底本の是非はともかく、いままでの江戸期版行の本とは異なる、古いタイプのものということのようである。

『太平記』は、

全40巻、

だが、古本系は、22巻を欠き、

かなり早い時期に、なんらかの政治的な配慮より削除された、

と見なされ、22巻を持つ本は、古本系の23巻以降を繰り上げている。第一巻は、

後醍醐天皇武臣を亡ぼすべき御企ての事、

と、後醍醐帝の対鎌倉幕府への謀叛露見(1324年)からはじまり、40巻は、二代将軍義詮(よしあきら)の死去に伴い、義満(よしみつ)がまだ幼少なために、将軍補佐の管領職に就いた細川頼之(よりゆき)が上洛する(1367年)、

細川右馬頭西国より上洛の事、

で終わる。「序」に、

蒙竊(ひそか)かに古今(こきん)の変化を探って、安危の所由(しょゆう)を察(み)るに、覆って外(ほか)なきは天の徳なり。明君これに体(てい)して国家を保つ。載せて棄つることなきは地の道なり。良臣これに則って社稷を守る。若しその徳を欠くる則(とき)は、位ありと雖も持たず。

と書き始め、

夏の桀(けつ)、
秦の(宦官)趙高、
唐の安禄山、

を挙げ、

ここを以て、前聖慎んで、法(のり)を将来に垂(た)るることを得たり。後昆(こうこん 後世の人)顧みて誡(いまし)めを既往に取らざらんや。

と書き、40巻は、

中夏無為の代になりて、目出度かりし事どもなり、

と締めくくる。

しかし、義詮が死去した年(1367年)から、南北朝が合一する年(1392)まて、25年ほどある。しかも、九州は実質南朝方の懐良(かねよし)親王の勢力下にあった。ここで締めたのは、『太平記』の

「太平」は、平和を祈願する意味で付けられている、

と言われている意味もあるのかもしれないが、ここまでの、

後醍醐天皇、
足利尊氏、
足利直義(ただよし)、

という、建武中興以降の内乱の第一世代と目される人が、

足利義詮、

の死で、一区切りついた、という意味もあるのかもしれない。それにしても、『太平記』は、宝井其角が、

平家なり太平記には月を見ず、

と、『平家物語』に軍配を上げているが、僕は、『平家物語』の、

祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ、

の書き出しに一貫する、平家滅亡の物語に比し、『太平記』は、もっと、

猥雑、

で、僕には、キーワードでいうと、本文にもたびたび出てくる、

澆季(ぎょうき)、

という言葉に尽きている、と思う。「澆季」は、

「澆」は軽薄、「季」は末の世(広辞苑)、

の意で、

道徳が衰え、人情が浮薄となった時代、

で、

末世、

の意とある(仝上)。まさに本書の登場人物たちのありさまそのものである。

そもそも始まりは、後醍醐天皇の鎌倉幕府の討幕だが、そこから、建武の中興がわずか二年で崩れ、南北朝が並立していく、その過程で、観応の擾乱で、尊氏、直義の兄弟対立、尊氏、直冬の親子対立が続き、敗者は、今までの立場をかなぐり捨てて、平然と南朝方につく。直義しかり、直冬しかり、それ以降、室町幕府内も、讒言のオンパレードで、政争に負けた武将、大名は、おのが利のために、皆南朝方につこうとする。この、

変節、
裏切り、
謀叛、
返忠、
内応、

止まることなく、また、

父子、
君臣、

相食む状況、さらには、

讒言、
密告、

で次々と人を陥れ、人を蹴落とす。まっとうらしい人物は少ない。確かに、

楠木正成、
楠木正行、

は、珍しい存在だが、しかし、翻って、南朝が正当という根拠は何なのか。ただ、鎌倉時代以後、武家の勢力にすがってよって立ってきた帝位を、代わって足利に頼るか、そうでないかの差に過ぎないように見え、楠木親子の姿勢は、どこか孤立して見える。高師直一族が殺された折(1351年)、本文に、

今の世、聖人去って久しく、梟悪深き事多ければ、仁義の勇者は少なく、血気の勇者はこれ多し、(中略)今、元弘
(1331~34年)以後、君と臣との諍(あらそ)ひに、世の変ずる事、わづか両度に過ぎざるに、天下の人、五度、十度、敵に属(しょく)し、御(み)方になり、心変ぜぬは稀なり。ゆゑに、天下の諍ひ止む時なくして、合戦の雌雄未だ決せず、

とある。それ以降、さらに40年戦いは続くのである。

『太平記』で、もう一つ着目すべきは、

下剋上スル成出者、

という、

下剋上である。

君臣を殺し、子父を殺す、

という言葉も何度も使われる。考えれば、

澆季、

は、室町末期の戦国時代の先取りと言っても構わない。そう考えると、室町時代という時代を通して、安定した政権は少なく、絶えず将軍職を争い、蹴落とし合っている。ある意味では、南北朝期は、

武家同士のガラガラポン

の始まりなのかもしれない。その最後の覇者が、家康ということになる。

太平記⑥(岩波文庫).jpg


なお、
中先代の乱は、鈴木由美『中先代の乱』http://ppnetwork.seesaa.net/article/483640979.html
観応の擾乱は、亀田俊和『観応の擾乱』http://ppnetwork.seesaa.net/article/483718450.html
で触れた。

参考文献;
兵藤裕己校注『太平記(全六冊)』(岩波文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

この記事へのコメント